霞が関官庁街の一角を占める財務省前で、「緊縮財政」や「増税路線」を批判するデモが拡大しています。
いわゆる「右派」「左派」といったイデオロギーを超え、断続的に実施されているようです。
先日もYouTubeでデモの様子を見ていたら、デモに参加した群衆の前で仲の良い知人が「いかに消費税が悪税か…」を必死に訴えていました。
世論調査をみても、国民民主党など「減税路線」を掲げる政党の支持が高まっている一方、自民党や立憲民主党、あるいは日本維新のように「緊縮(増税)路線」を掲げる政党の支持率が下がっています。
一昔前では、というか、つい最近までは全く考えられなかった政治情勢です。
これまではあまり政治に関心を持たなかったけれど、いよいよ自身に実害が及んでくるに至り、「財務省、ふざけんなっ!」という怒りが込み上げてきた国民が増えてきたのだと思われます。
それでもまだまだ財務省の政治的パワーは絶大であり、政府の財政政策を転換するまでの道のりは依然として険しい。
なにしろ、国会では積極財政とは真逆の方向をいく自公維体制が構築されつつあり、しかも野党第一政党の立憲民主までもが財務省よりです。
国民が本気で財政政策の転換を図りたいのであれば、来る参議院選挙において自民、公明、維新、立民の議席を大幅に減らすしかない。
さて、その財務省ですが、かつて齋藤次郎という大物事務次官(事務次官は省内官僚の最高位)がいました。
その齋藤次郎が『文藝春秋』(2023年5月号)で次のように述べています。
「入省して(1959年)、徹底的に教え込まれてたのは、財政規律の重要性でした。『財政の黒字化は当たり前のことでなければならない』、『赤字国債は絶対に出すな。』…毎日のように先輩から言い聞かされました。(中略)私も予算査定の際には、主計局の上司や同僚にしょっちゅう議論を吹っ掛けられていました。そうやって厳しく教育されながら、大蔵官僚たちは『財政規律の大原則』を脈々と受け継いできたわけです」
わが国の最高学府を優秀な成績で卒業し、事務次官にまで上り詰めた人が、この程度なのか、と驚かざるを得ません。
例えば「財政の黒字化は当たり前…」と言うけれど、今なお緊縮財政(財政規律の重要性)を主張している主流派の経済学者でさえ「財政を黒字化しなければならない」などとは一言も言っておりません。
彼ら彼女らが言っているのは、せいぜい「政府債務対GDP比率が上昇するのはだめだ…」程度であって、「絶対に財政を黒字化しろ」などとは言っていないはずです。
因みに「政府債務対GDP比率が上昇するのはだめだ…」でさえ、それを正当化する根拠など何も在りません。
財務省では、旧大蔵省時代から脈々とこのようなドグマ(教義)が組織的に受け継がれてきたのですから、そりゃぁ日本が凋落するのも宜なるかな。
財務省は今なお「日本は国の借金で破綻する」というレトリックを使いますが、上のグラフのとおり、昨年9月末時点の日本国家のバランスシートをみますと、右上の赤い部分(1439兆円)が、一般政府(地方自治体も含む)の負債です。
この一般政府の負債(1439兆円)から地方自治体の負債を引いたものが、財務省ら緊縮派の言ういわゆる「国の借金」です。
何度でも言いますが、「政府の負債」を敢えて「国の借金」と言うのが財務省の手口です。
たしかに地方自治体を含めた政府には1439兆円の負債があり、資産は869兆円しかありませんので、570兆円の債務超過ということになります。
しかしながら、よく考えてほしい。
いつも言うように、誰かの負債は必ず誰かの資産であり、誰かの赤字は必ず誰かの黒字なのです。
上のグラフで「家計」の資産と負債を見よ。
資産2179兆円に対し、負債は392兆円です。
その差額、すなわち家計の純資産は1787兆円となります。
要するに、政府は貨幣という負債を発行することにより、加えて非金融法人(企業)が借金(投資)をすることによって、国民の資産を増やす仕組みになっています。
家計の純資産がこれだけ黒字であるにもかかわらず、依然として国民生活は苦しい。
つまり、政府の財政支出(通貨発行=政府の負債)が足りないということです。
むろん、1990年代から行われてきたネオリベラリズムに基づく「構造改革」による弊害も大きいのですが、財務省が政府の黒字化(国民の赤字化)を進めるかぎり、財務省の解体を求める国民の声が高まるのは必然でしょう。
財務省の解体が必要であるのなら、敗戦利得者政党である自民党の解体もまた必要であるかと思います。