戦後80年の節目にあたり、国民としてどう思うか

戦後80年の節目にあたり、国民としてどう思うか

本日2月23日は、今上陛下のお誕生日です。

宮中三殿では陛下のお誕生日を祝す天長祭が行われます。

天長祭の歴史はもちろん古く、奈良時代の宝亀6(775)年、光仁天皇の御世から行われています。

因みに東京九段の靖國神社においても、天皇御誕辰奉祝祭が行われます。

さて、陛下への記者会見では、幹事記者から「ことしは戦後80年の節目にもあたることから、象徴として何を思われるのか?」という質問がありました。

むろん、陛下は誠実にお応えになられました。

しかし、幹事記者の質問は、いかにも「あの負けた戦争について、どう思うか…」という聞き方で、何より「象徴として…」という聞き方は実に不遜であろう。

そんな不敬質問が依然としてまかり通る。

わが国は未だ敗戦国であることを慨嘆するほかない。

この不敬記者は知らないだろうが、奇しくも今日は「熱河作戦」が開始された日でもあります。

満洲国が建国されたのは昭和7年3月ですが、その後も満洲には20万を超える兵匪が跋扈していたため、関東軍による討伐作戦が行われていました。

その結果、翌年の昭和8年の初頭までには兵匪はおおむね掃討されたのですが、熱河省には満洲を負われた張学良軍が4万の義勇軍を編成して侵入し、「反満抗日」の策源地たらしめていました。

そこで関東軍は昭和8年の今日(2月23日)、満洲国騒乱の元凶である張学良の勢力を一掃するため熱河作戦を開始し、瞬く間に熱河省内の敵を潰走せしめて、3月の上旬には万里の長城の主要関門を制圧しています。

ただし、熱河作戦に関して当時の武藤信義関東軍司令官は、部下たちに内訓を発して「長城を越える作戦」を厳禁しています。

むろん、長城の向こう側は中華民国の領土だからです。

戦後教育を受けた日本国民のほとんどは理解しておりませんが、そもそも満洲国は中華民国(漢民族)の領土ではありません。

武藤信義関東軍司令官も内訓のなかで次のように述べています。

「長城を隔つる河北省は中華民国の領域にして、大命(天皇陛下の意思)あるにあらざれば、軍として作戦行動を許されざるの地域たるをわきまへ、局地の情況もしくは戦術的利害に眩惑し、大局を誤り国策に反するが如き行動を戒むべく、遺憾なきを期すべし」(カッコ内:筆者注記)

すなわち、関東軍司令官は、天皇陛下(昭和天皇)のご憂慮を十分に聞かされていたので、軍が長城を越えて関内(支那本土)に進出することを厳禁したのです。

対支抗争の回避を望まれる昭和天皇の大御心と、それを体して軍の越軌の行動を厳禁した司令官の切々たる気持ちを伝える訓示でもあります。

しかし残念ながら、日本側の善意と平和意思だけでは争いを回避できないところに歴史や現実の複雑さがあります。

その後、陛下の願いは叶わず、支那事変が拡大していくことになったのは周知のとおりです。

「戦争は悲惨だから嫌…」という短絡的感情論だけでは、歴史から何も学ぶことはできない。