ことしのノーベル平和賞に日本原水爆被害者団体協議会(被団協)が受賞されました。
被団協は1956年に結成された原爆被爆者の全国組織で、ノルウェーにある選考委員会によれば、今回の受賞理由は「およそ70年にわたり被爆の実相を伝え、核兵器廃絶を世界に訴える活動を続けてきたこと」とされています。
それを我が国のメディアは嬉しそうに報道していますが、これまでにもノーベル平和賞が偏向した思想に基づいて決まってきたことは否めない。
現実に目を瞑る空想を語り続けることが、どうして平和的な活動として高く評価されるのか。
紛争地や戦地において、官民を問わず有形的な平和維持活動をされている人たちこそもっと評価されるべきではないでしょうか。
もちろん、理想を語り続けることは必要ですが、現実性のない理想は現実逃避に他ならず、むしろ危険でさえあろうに。
残念ながら、どんな運動を展開したとしても、そもそも核を廃絶すること自体が不可能ですし、仮に廃絶できたとしてもそれで世界平和が保証されるわけでもありません。
「この世に武器さえなければ争いごとなど起こらない…」と考えているのだとすれば、あまりにも稚拙です。
今から30年前、アフリカのルワンダの内乱で何十万の人たちが殺害されましたが、その内、明らかに10万人以上は棍棒で殴り殺されています。
棍棒でさえも武器にされるのが現実なのです。
また、例え「核兵器」を廃絶できたとしても、「核技術」までをも廃絶することはできません。
廃絶ののち、国際政治のヘゲモニーを握ろうとする新たな核兵器保有者が現れるだけです。
どうして、それが理解できないのでしょうか。
平和追求のために戦争の歴史を学ぶことはもちろん重要であり、戦争の悲惨さを知ることも平和追求の願いを強くするために必要でしょう。
しかし、その悲惨さを訴える多くの平和運動家たちは、平和獲得のために武装解除以外の方法を考えません。
繰り返しますが、「武器をなくせば平和になる…」というのは、全くの錯覚であり妄想です。
被団協はその典型ですが、当該団体は被団協は共産党系と聞く。
ゆえに日本共産党としては「被団協のノーベル平和賞受賞は選挙に有利になる」と喜んでいるのかもしれませんが、そのことを選挙で前面に出してしまうと、多くのリアリストの人たちがドン引きしてしまうかもしれません。
誤解を恐れずに言えば、被団協のノーベル平和賞受賞というのは、核廃絶が絶望であることを確定させたことの証ではないでしょうか。
現に国際情勢をみても、これまで1ミリたりとも核廃絶の方向には進んでおらず、逆に核兵器は拡散し続け、ウクライナ紛争やイラン・イスラエル紛争で核兵器使用の危険が大きくなっています。
なのに、どうして被団協の活動に成果があったと言えるのでしょうか。
平和とは秩序のことであり、秩序は何によってもたらされるのかを考える。
それがリアリズムです。