戦争がなかった縄文時代

戦争がなかった縄文時代

人類の歴史とは、それ即ち「戦争の歴史」と言っていい。

では、なぜ人類は戦争を繰り返すのでしょうか。

言うまでもなく人間は生物学的にも社会学的にも一人では生きていけない。

ゆえに、歴史や文化や言語を共有する者たち同士で共同体を形成して経済活動を営むことで生命を維持しつつ種族保存のための行動をとっています。

当然、経済活動に必要な水、食料、エネルギーなどの賦存量には限りがあるため、それらをめぐって共同体同士の争奪戦が起こります。

それが戦争の主たる要因でした。

むろん、宗教や文化のちがいなどでも戦争は起きていますが、その根底には常に資源と市場の争奪問題がありました。

ちなみに、昭和16(1941)年12月、対米英戦争に踏み切らざるを得なかった我が国もまた「東南アジアの天然資源の確保」が開戦の要因でした。

戦後の昭和26(1951)年5月3日、米国上院の軍事外交合同委員会で発言を求められたダグラス・マッカーサーも次のように述べています。

「日本は絹産業以外には、固有の天然資源はほとんど何もない。彼らは綿も羊毛も石油も、錫もゴムも、そのほか実に多くの原料が欠如している。そして、それらのすべて一切がアジアの海底には存在していたのです。もし、これらの原料の供給が断たれたら、日本国内で1,000万人から1,200万人の失業者が出ていたでしょう。日本人はそれを恐れていました。したがって、日本が戦争に突き進んでいった動機は、大部分が安全保障の必要性に迫られてのことだったのです」

さて、その一方で歴史には例外があります。

例えば、我が国の歴史には「縄文時代」と呼ばれる時代が約1万年ありますが、この時期の日本国内ではほぼ戦争はありませんでした。

共同体の生存ということを考えたとき、縄文文明の経済システムが極めて合理的なものだったからです。

縄文期から既に、共同体(村)によって生産と分配が行なわれていました。

ここで言う「生産」とは、穀物の生産ではなく、例えば木の実の収穫であったり、あるいは漁労など、海や川から魚や貝やタコとか、ときにはナマコやウニを獲ったりして生活していたようです。

むろん、イノシシなどの陸上動物を殺して肉を手に入れるなどの狩猟もしていました。

この時代の日本列島は人口があまり増えませんでしたので、人口規模からみた食料資源は実に豊富だったのです。

縄文遺跡からでてくる人骨には「戦争による損傷の痕跡」がありませんが、弥生時代の遺跡からはそれらの痕跡が顕れます。

また、人口が増えはじめたのも弥生時代からです。

なぜか?

それは弥生時代から穀物(稲作)の生産がはじまったからです。

ここに縄文時代と弥生時代の決定的な違いがあります。

穀物を生産しない縄文時代には、離乳食をつくることができません。

要するに、赤ちゃんがなかなか母親離れできないわけです。

離乳食がなければ、お母さんは母乳で子供を育てなければならず、その間、お母さんは次の子どもを妊娠することができませんでした。

これが縄文時代に人口が増えなかった最大の理由です。

逆に言えば、縄文時代は自然の生産力に見合った人口というのが維持された時代とも言えます。

ご承知のとおり、縄文時代は1万年以上も続きましたので、そこにはものすごいノウハウの蓄積があったでしょうから、いつどこに何を取りに行ったら最も的確な、あるいは適切な食糧を手に入れられることができるか、というような知識は各共同体に共有されていたはずです。

その意味では、今の私たちよりも縄文人のほうが感覚は遥かに鋭かったのかもしれません。

一方、弥生時代に入って穀物を生産するようになり、即ち離乳食を確保することができるようになって以降、我が国では人口が増えていくようになりました。

すると、穀物の生産力が共同体(村)の盛衰に直結するようになります。

稲作のためには、少なくとも土地と水という資源が不可欠です。

ここから、日本国内においても資源をめぐる戦争がはじまるわけです。

とはいえ、我が国は自然災害大国であったため、西洋や大陸国家に比べると、紛争で死ぬ人よりも災害で死ぬ人のほうが圧倒的に多かったことから、民族としてはユーラシア大陸のような戦争史観を持ち合わせていないのが特筆です。

ちなみに、私たちは学校教育において「紀元前300年頃に大陸や半島から弥生人が入植してきて縄文人にとって代わった」と教わってきましたが、それをまともに信じてはいけません。

稲作技術を手に入れた縄文人が、そのまま弥生人になった、と理解すべきです。

縄文人と弥生人の顔の骨格が異なるのは人種の違いではなく、ただたんに主食が木の実や肉類から、柔らかいおコメに替わったからです。