古典教育廃止論に反論する!

古典教育廃止論に反論する!

巷では、「古典オワコン論」なるものがあるらしい。

要するに「古典教育は不要だ…」という論理で、「古典を勉強したところで現実社会では役に立つこともなく、金儲けの道具にもならないから…」というのがその理由のようです。

興味深いのは、古典否定派と古典肯定派の論争です。

否定派の意見は常に一貫しています。

「そんなもの勉強したって何のメリットもない…」と。

古典の勉強をするぐらいだったら、数学や英会話、金融教育、ディベート教育、プログラミング、あるいは企画書の書き方とか、Excelの使い方とかを教えたほうがいい、と否定派は主張しています。

それに対し、「いや、古典教育は必要だ…」と主張する肯定派たちの意見がネット上でも溢れているのですが、残念ながらどれも説得力に欠けるものばかりです。

例えば、肯定派たちは「古典は面白い」「古典は役に立つ」等々、懸命に古典教育を義務化する必要性を解いているのですが実にあっけなく反論されています。

面白いから古典を勉強すべき、というのはちょっと無理があります。

そもそも面白い、面白くない、というのは、肯定派たちの主観の問題に過ぎません。

結果、「だったら古典を面白いと思える人たちだけが学べばよく、義務化する必要はない」という反論をくらい、「学びたい人だけが学べばいい」という否定派の主張をむしろ裏付けるかたちとなっています。

次いで「古典は役に立つから義務化すべき」というのも、一見ごもっともそうですが実は説得力に欠けます。

彼らの言う「役に立つ」とは、例えば「国際交流の場で教養を披露できる」とか、「時代物の映画や小説を理解し易い」とか、「昔の資料を読むことができる」とかなのですが、べつに古典だけが教養ではないし、時代物の映画も観なければ、小説を読まない人もいるし、昔の資料と無縁の人たちはごまんとおり、こうした人たちにとっては全く役には立ちません。

よって、これもまた「だったら義務化する必要はないでしょっ…」と反論されています。

なかには「古典は生きるための知恵だ」という肯定派もいるのですが、これも意外に説得力に欠けます。

なぜなら、万人に普遍的に役立つ知恵を教えたいのであれば、古典よりも効果的な方法はいくらでもあるからです。

例えばギリシャ・ローマの哲学や偉人たちの自叙伝のほか、社会科学に関する書物やビジネス書などからも、生きるうえで役立つ知恵を豊富に学ぶことができます。

要するに、それらを押しのけてでも我が国の古典を義務化せねばならない理由を説明しきれていないのでございます。

では、なぜ古典教育を義務化しなければならないのでしょうか。

まず、否定派たちのそもそもの間違いは、義務教育が「将来、おカネを儲けるための基礎的な知識やノウハウ」を教えるものだと誤解していることです。

占領憲法下で生まれ育った人たちの陥りやすい誤解です。

何より義務教育の本来の目的を理解すれば、古典教育を義務化しなければならない理由がよくわかります。

教育基本法にもあるように、義務教育や学校教育の目的は「国民の形成」にあります。

また、文科省の『中央教育審議会』が示した「義務教育に係る諸制度の在り方について(初等中等教育分科会の審議のまとめ)」にも、義務教育の目的が次のように明確に記載されています。

義務教育の目的は「国家・社会の形成者として共通に求められる最低限の基盤的な資質の育成」であり、「義務教育を通じて、共通の言語、文化、規範意識など、社会を構成する一人一人に不可欠な基礎的な資質を身に付けさせることにより、社会は初めて統合された国民国家として存在し得る」と。

だからこそ、古典教育は必要なのです。

すなわち、国家とは何か、国民とは何かを理解できない人たちには、古典教育の必要性を理解することは困難なのでしょう。