エノラ・ゲイのその後

エノラ・ゲイのその後

今日は8月6日です。

79年前の今日(午前8時15分ごろ)、広島に原爆が投下されました。

死亡者は11万人以上、後遺症によるその後の死亡者数を含めますと20数万人にも及びます。

原爆の投下命令は7月24日、ポツダムにいたトルーマン大統領が正式承認し、8月3日以降に広島、小倉、新潟、長崎のいずれかに投下することになっていました。

戦後、私たちは「原爆を投下されたのは日本がポツダム宣言の受諾を拒否したからだ…」と教わってきました、

むろん、嘘です。

ポツダム宣言が発せられたのは7月26日であり、それが日本政府に届いたのは7月28日です。

前述のとおり、トルーマンが原爆投下を命令したのは7月24日です。

要するに日本がポツダム宣言を受け入れようと、拒否しようと全く関係なかったのです。

むしろ、「日本がポツダム宣言を受け入れ降伏する前に早く投下しろ」という命令だったと言っていい。

当時の日本軍(陸軍)の一部には本土決戦による徹底抗戦を主張していた者たちが少なからずいたことは事実ですが、日本政府には講話(降伏)の意思があり、ポツダム宣言が届く以前からソ連にその仲介を求めていました。

日本の暗号を悉く解読していた米国は、当然のことながらそのことを知っていました。

だからこそ「日本が降伏する前に早く落とせ…」となったのでしょう。

また「米兵の犠牲を少しでも減らすために原爆投下はやむを得なかった…」と言う人もいます。

繰り返しますが、原爆が投下される2ヶ月も前から日本はソ連を仲介に降伏する用意ができていました。

あるいは「広島が軍港だったから、原爆の投下はやむを得なかった…」というのも理由になりません。

爆心地は市街の病院だったのですから。

そもそも破壊力の大きさを考えれば、爆心地が軍港であれ病院であれ意味を成しません。

被害を測定するため、まだ空襲によって被害を受けていない都市が選ばれたに過ぎなかったのです。

その3日後に長崎に投下された原爆はプルトニウム型で、これも広島に投下したウラン型との効果比較のための人体実験だったと言っていい。

もしもナチス・ドイツが未だ戦争を継続中であったなら、米国が白人国のドイツに原爆を投下することはなかったでしょう。

日本人が有色人種だからこそ、迷うことなく原爆を投下したにちがいない。

さて、広島に原爆を投下した爆撃機は、ご存知のとおりB‐29爆撃機(通称:エノラ・ゲイ)です。

エノラ・ゲイは、機長のポール・ティベッツ大佐の母親の名前だとか。

戦後、エノラ・ゲイはどうなったか。

戦争終結後、機体保存が決定され、メリーランド州アンドルーズ空軍基地において解体保存されていました。

その後、紆余曲折を経て、現在はワシントンD.Cにあるスミソニアン航空宇宙博物館で常設展示されています。

スミソニアン航空宇宙博物館は、前世紀を通じて航空と宇宙探査を進歩させてきた米国の驚くべき技術的成果を紹介し記念する施設です。

そこに常設展示されていることを、私たちに日本国民は決して忘れてはならない。