ドーリットル空襲

ドーリットル空襲

あの大東亜戦争の初戦、日本軍は英米相手に勝ちっぱなしでした。

あの南雲という司令官でさえ、ハワイ攻撃の後に行われたインド洋作戦において大成功を収め、英国の重巡洋艦2隻と空母1隻を撃沈しています。

チャーチルも日本の海軍航空部隊のすごさに驚嘆しているほどで、例えばセイロン島沖の海戦での日本空軍の九九艦爆の命中率に驚いて次のように述べています。

「The efficiency of Japanese airman was really trimendas」

(日本の飛行機乗りたちの爆撃効率は本当に凄まじかった)

すなわち昭和17(1942)年の4月上旬までは日本軍の快進撃が続いたのです。

ところが、その年の4月18日、すなわち77年前の今日、東京、川崎、横浜、名古屋、神戸など我が国の本土が初めて米軍からの空襲を受けたことで転機を迎えます。

いわゆる、ドーリットル空襲です。

緒戦を勝ちまくっていたのにもかかわらず、です。

もっとも空襲されはしたものの、のちの東京大空襲のような大虐殺と呼べるほどの被害はでませんでした。

わずか16機の陸軍機(ノースアメリカンB25爆撃機)が本土上空に飛んできて、パラパラと爆弾を落としてシナ大陸に逃げていったのです。

たった16機での空襲だったのですが、大本営では「緒戦を勝ち続けているのに、帝都が空襲されるとは何事か!」ということになり、慌ててミッドウェー島の攻略が計画されたのです。

ご存じのとおり、あのミッドウェーでの惨敗が大東亜戦争の分水嶺となって、以後、我が国は坂を転げ落ちていくようにして敗戦に至ったのでございます。

その意味では、4月18日のドーリットル空襲の規模は小さかったものの、米軍にとっては実に好手となったことは敵ながら認めざるを得ません。

よく考えてみてほしい。

本土に飛んできた米国の戦闘機は、海軍機ではなく陸軍機です。

当時の日本は未だ「絶対国防圏」を確保していましたので、陸上から発進する爆撃機が日本本土にまで飛んでくることなどあり得ないことでした。

そのあり得ないことが起きたのです。

なぜか…

なんとジミー・ドーリットル中佐を指揮官とする16機の陸軍機(B-25爆撃機)は、米海軍の空母(エンタープライズ、ホーネット)から発艦してきたのです。

空母から発艦したのであれば話は別です。

航続距離の長い陸軍機は構造上、空母を発艦することはできても着艦することができません。

日本本土に爆弾を落として、そのままシナ大陸に逃げていったのはそのためです。

敵ながら関心せざるを得ないのは、そのような作戦を海軍と陸軍が協力して計画し実行できた点です。

それに比べて我が帝国陸海軍は、海軍と陸軍がそのような共同作戦を展開したことなどただの一度もありません。

それどころか、日本の海軍と陸軍は常に喧嘩。

ついには、海軍を信用できない陸軍が、自ら「船」をつくりはじめたほどです。

これぞ亡国の兆ではないか。