学校教育では、「日本は明治維新によって近代化に成功した」という物語を教えていますが、果たして本当にそうなのでしょうか。
現在の我が国がおかれている厳しい現実をみたとき、その原因を歴史的に探っていくと、むしろ「明治維新」という失敗に行き着くような気がしてならない。
すなわち、日本はどこから道を踏み外したのかの答えは、「明治維新」としか言いようがないのでございます。
国民的作家の司馬遼太郎は「明治は偉大だったが、昭和は駄目だった…」と言うけれど、詰まるところ、明治が駄目だったからこそ、昭和も駄目だったのではないでしょうか。
私に言わせると「江戸は偉大だったが、明治が駄目だった…」になります。
ここで言うところの明治とは、薩摩、長州、土佐、肥前のお兄ちゃんたちがつくった革命政権および彼らが行った近代化のことです。
その上で言えることは、大正時代を挟んでも明治と昭和には断絶はありませんが、江戸と明治には決定的な断絶があるということです。
断絶の一つは、武士道の喪失です。
例えば、どこの国でもその歴史はほぼ戦争の歴史ですが、我が国の場合は極めて殺戮の少ない国です。
例外的なのは信長さんくらいで、有史以来、戦国時代を含めても凄惨な殺戮はほぼみられません。
秀吉と勝家が戦った「賤ヶ岳の戦い」でも、近隣のお百姓さんたちがお弁当を持参して高見の見物をしていたくらいに実に長閑なものでした。
江戸時代に入ると、大阪の陣と島原の乱以降は、ほぼ戦争はなく平和な時代がつづき、260余年の時代を経て武士道が形成されていきました。
武士道こそ、我が国が創った世界に冠たるソフトウェアだといっていい。
ところが、徳川幕府が力を失って、薩長土肥のお兄ちゃんたちの鼻息が荒くなってからというもの、せっかくの武士道がどこかへ消えていきました。
戊辰戦争などは、ほんとうに武士と武士の戦いなのかと目を疑うほどです。
ご承知のとおり我が国では、もののふの決戦において戦死者を打ち捨て屍(しかばね)をいたぶる悪習などありません。
それを薩長はやった。
会津では、降参している敵を許さず、城内にいた婦女を自決に追い込み、会津の山野に重なるように倒れていた死体を放置して、それを葬ることすら許しませんでした。
風雨に晒された遺体は朽ちていったといいます。
薩長は「尊王の藩士が会津藩お預かりの新選組にやられた報復だ…」と言うけれど、テロリストを成敗するのが新選組の務めなのであって、会津藩の民百姓や婦女子にはなんの罪もありません。
武士の情けを喪失した官軍(薩長軍)は、まるで欧米の遺伝子を注入されたがごときです。
その遺伝子が、昭和の日本を地獄へと叩き落とすことになったと、私は考えます。
ちなみに、私の母の旧姓は「会津」で、会津戦争の際の落人(おちうど)の末裔です。