令和6年3月11日、川崎市議会・文教委員会において、「外国人地方参政権があることは市として望ましいものと考えている」と答弁した市民文化局長の中村茂氏は、その答弁のなかで次のようにも述べています。
「多文化共生の行政は議会を含めた市民の総意として進めてきた…」と。
市民の総意…?
少なくとも私は議員として「外国人地方参政権」について反対しており、その私を支持して下さる川崎市民がいるのですから、そうした市民は川崎市民ではないのでしょうか。
また、投票していない市民の意思はどうやって確認されたのでしょうか。
そもそも、行政に携わる者が「総意」という言葉を軽々に使用するのは極めて危険なことです。
日本国憲法は第一条において「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」と規定しています。
ここに「総意」という言葉がでてきます。
この言葉は我が国の根幹をなす規定に使われているのです。
ですから議員も行政官ももちろん首長も、平談俗語の場合は知らず、特に議会など正式の場では軽々しく口にしてはならない言葉です。
憲法でいうところの「国民の総意」とは、単なる多数ではありません。
日本国憲法の思想的背景の一つと言われているルソーの『社会契約論』では、「総意」という概念を二つに分けて立論しており、明治時代に翻訳した中江兆民はこれを正しく訳し分けています。
すなわち…
全体意思 volonte de tous 兆民訳「衆人の志」= 個々人の私欲の集積。
一般意思 volonte generale 兆民訳「衆志」⇒ 私欲の集積ではなく全体の正義・道理、いわば「天地の公道」への志向において表現せられる意思。
「今だけ、金だけ、自分だけ」の私欲の寄せ集め、ときどきの熱狂に煽られて集積されただけの多数が、多数なるがゆえに「正しい」とは言えないことは、私たちは体験的にも十分知っているのではないでしょうか。
一方、少数なるがゆえに正しいということもできません。
議会制民主主義のもとで条例や予算などが多数決で決せられていくとき、国会でもよく多数派の横暴という言葉が発せられることがあります。
多数派の主張であれ、少数派の主張であれ、重要な問題であるほど、一般意思としての「総意」に基づかなければならないことは明白でしょう。
ではどうしたらこれを形成できるのか。
それは、多くの場合には決定方法として多数決をとりながらも、謙虚に深く過去と現在の同胞の営み・心に聴き、根本から考える。
自己を「総意」の体現者視しない。
引き返せない、或いは変更が相当に困難な決定は、熟慮し熟議し責任意識をもって行う。
そして間違えたとわかったら間違いを認めて速やかに改めること。
これらができる体制をつくり守っていくこと、です。
これこそが、自由で民主的な体制に不可欠な態度であって、単なる多数意思を「国民の総意」とする間違った「総意」理解は全体主義へまっすぐに通じています。
これは極めて危険な思想で、ヒトラーもスターリンも毛沢東も金日成も、全て人民の意思を名として強権を振るったのでした。
特にナチスは民主的多数決によって全権委任を獲得しています。
繰り返しになりますが、多数決というものは、それだけでは正当性・正統性を持ち得ません。
長い歴史を通じて培われてきた知恵、簡単に言えば常識を尊重する、その表れ(現れ)である伝統を尊重する、という意味においての「縦の民主主義」「時間の民主主義」こそが民主主義の精髄であると考えるのが保守です。
そうした保守主義と真っ向から対立するのが「単純素朴な理性主義」ですが、彼ら彼女らは「理性によって構築した正しい理論を実践世界に当て嵌めれば必ず上手くいく…」と考えます。
しかし、理性といいつつも、それは単なる欲望の表現にすぎないのではないか、という発想はけっして浮かばない。
また、人間の永い歴史や経験を軽視して自分の頭の産物だけが正しいと思い込んでいますから、反対派を認めません。
むしろ、反対派は必ず間違っていると考えます。
そして上手くいかなければ原因は全て反対派にある、だからこれを抹殺すれば完全な社会ができる、という考えが展開していきます。
正しいのだから万人が賛成するはずである、いや賛成しなければならない、そう確信します。
このようにして全体主義の扉が開かれていくわけです。
今回、川崎市の局長という幹部職員から、私を支持してくださった川崎市民を全く無視する発言が平気で発せられただけでなく、その発想が実は全体主義へまっしぐらの発想であり、更に悪いことに当人が誤りに全く気付いていないこと、私はこれを放置しておくことはできません。
私は今後とも、人間理性に絶対的な価値をおかず、近代的な妄想や近代思想の暴力から社会を守る「保守政治家」でありたい。