2年前に亡くなった私の父は、大戦中の昭和17年11月に東京の向島で生まれました。
昭和17年11月といえば、日本軍は同年6月のミッドウェー海戦の敗北により、虎の子の空母4隻とその艦載機、そして300人以上の優秀な飛行機乗りたちを悉く失い、これを機に戦況は一気に悪化し坂を転げ落ちはじめていた頃です。
昭和19年にはサイパン島が陥落し、ついに日本本土が米軍の爆撃圏となってしまいました。
そのため、父が3歳となる昭和20年、すなわち79年前の今日、東京で米軍による無差別大虐殺が決行されます。
3月10日に日付が変わった午前0時8分、280から340機ともいわれる爆撃機(B29)の大編隊が低空から東京に侵入し、民家の上に130万発の焼夷弾を投下しました。
米軍が、午前0時を過ぎてから爆弾を投下しはじめたのは偶然ではなく、この殺戮日を3月10日にしなければならなかったからです。
3月10日は、日露戦争の際、奉天の戦いで日本軍が大勝利を収めた記念日(陸軍記念日)でしたが、この日を米国はどうしても「虐殺・慰霊の日」にしたかったらしい。
130万発の焼夷弾により、信じられないほどの火災がひき起こされました。
真夜中の東京は炎の海と化し、特に父の住む向島・浅草一帯は生き地獄となったようで、「隅田川が煮え湯のように沸騰した…」とも言われています。
米軍は執拗でした。
焼夷弾とともにガソリンもばら撒いています。
しかも、人々の逃げ道を塞ぐようにして、すなわち街のまわりを火で取り囲むように焼夷弾をおとし、逃げ道を塞がれた人々に向けて焼夷弾を落としたのです。
私の祖母もまた、幼い父を背におぶり、父の姉と兄の手をとって4人で逃げ惑いました。
そうしたなか、祖母は敢えて燃え盛る炎に向かって逃げたという。
既に一帯が炎で燃え盛っているところに米軍は焼夷弾を落とさなかったからです。
逆に、炎を避けるようにして逃げた人々は焼夷弾の的となってしまったようです。
祖母の機転がなければ、今ここに私は存在していなかったかもしれません。
この日、黒焦げにされた者、灰にされた者、そして行方不明になってしまった者の総数は12万人以上、罹災者は100万人以上にも及びます。
日本で諜報活動を行っていた米国のスパイは、「死者総数は30万人に及ぶ」と本国に報告しています。
むろん、そのほとんどが一般市民です。
私たちが教科書で習う「東京大空襲」とは、まさに「東京大虐殺」でした。
東京だけではありません。
その後、硫黄島が陥落したことにより空襲はさらに激しくなって、日本の都市は悉く破壊し尽くされ、焼き尽くされたのです。