プーチンの言い分

プーチンの言い分

プーチン大統領が9月30日、「われわれは一つの国民だ。あらゆる試練を共に乗り越えていく」として、ウクライナ東南部4州をロシアの一部として防衛していく決意を強調する声明を出しました。(共同通信)

そして、昨年9月に行われた住民投票においてロシアへの統合を支持した4州住民の「強い意思により、ロシアはさらに強くなった」と謝意を示しました。

このウクライナ東南部4州というのは、ドネツク州、ルガンスク州、ザポリージャ州、ヘルソン州のことで、ノヴォロシアと呼ばれている地域です。

ロシアがトルコとの戦争(1877〜1878年)に勝利し、奪い返した地域です。

その後、レーニン時代(ソ連時代)に西部ウクライナと統合されました。

レーニンがノヴォロシアをウクライナに編入した理由は、いわゆる分割統治です。

西ウクライナに住む住民はボルシェビキによる共産革命に反対する農民が多かったため、その対立勢力として工場労働者(ロシア系プロレタリアート)の多いノヴォロシアを組み入れ、ウクライナを常に争いが絶えない状態にしておこうとしたわけです。

ここで重要なことは、ノヴォロシアに住む人たちと、西部ウクライナに住む人たちでは、民族、言語、宗教が異なることです。

その後、ウクライナ政府は、1922年から1933年にかけてロシア人とロシア語を迫害しはじめました。

例えば、公的機関で働く人はロシア語を使用してはいけない、とか。

要するに、役所や工場などパブリックな場での会話はすべてウクライナ語にしろ、としたわけです。

そうすると、ウクライナ語を話すことのできないロシア系住民は役所や工場から解雇され就職もできない。

実質的なウクライナ人が東ウクライナ(ノヴォロシア)においても、いいポジションをほとんど独占し、ロシア語しか話すことのできないロシア系住民は貧しい境遇に置かれていったのです。

しかも1933年以降は、学校でもロシア語の使用が禁止され、ロシア系の子供たちは無理やりにウクライナ語による授業を受けさせられたのです。

私なんぞは子供の頃、母国語(日本語)による授業でさえよく理解できなかったわけですから、それがある日から突然に外国語による授業に変わってしまうのですから余計に解らなくなってしまうでしょう。

プーチン大統領が懸命に主張している「ロシア系住民に対する迫害」は事実であって、でっちあげでもなんでもありません。

このように、1920年代から既にはじまっていたのです。

さらに不幸なことは、スターリン時代にはハプスブルク帝国が支配していたガリツィア人をも西ウクライナに組み込んでしまったことです。

ガリツィア人のロシア嫌いは凄まじい。

第一次世界大戦中、彼らはロシア系住民やロシア正教の神父、あるいはロシアに味方する言論人や知識人たち、合わせて何万人をコンセントレーション・キャンプ(強制収容所)に押し込み、そのうち数千人を虐殺しています。

1935年頃に、その強制収容所を発掘調査したら、ロシア人の死体が約2000人ほど出てきたらしい。

くどいようですが、このように西ウクライナ住民のロシア嫌いは歴史的なものであって、プーチン大統領のせいではありません。

ノヴォロシアのロシア系住民への迫害は今なお続いています。

だからこそ「ミンスク合意」が為されたのであって、しかもそのミンスク合意を覆したのはプーチン大統領でなく、ゼレンスキーです。

こうした歴史的背景を知れば、冒頭の「われわれは一つの国民だ。あらゆる試練を共に乗り越えていく」というプーチン大統領の決意が、いかほどのものかがよく分かります。

なのに西側メディアは、まるでプーチンが「ロシア帝国の最大領土を復活させたいからウクライナに侵攻した…」と報道し喧伝しています。

その西側メディアの報道に、我が国の国民の多くが洗脳されてしまっているのは誠に残念です。