82年前の今日、すなわち1941年9月6日、「御前会議」(陛下ご臨席のもとで開催される重要な国政会議)が開かれました。
この御前会議は、米国から対日資産凍結という仕打ちを受けたため、その後の国の方針について基本政策を確認するために開かれたものです。
そこで確認された基本政策こそ「帝国国策遂行要領」です。
戦後すぐに発禁処分となった東條英機元首相の東京裁判での『宣誓供述書』をみますと、次のように記されています。
「この帝国国策遂行要領の要旨は急迫せる情勢の鑑み、従来決定せられた南方施策を次のような要領により遂行するというものであります。
①10月下旬頃までを目途として日米交渉の最後の妥結に努める。これがため我が国の最小限の要求事項ならびに我が国の約諾し得る限度を定め極力外交に依ってその貫徹を図ること。
②他面10月下旬を目途として自存自衛を完うするため対米英戦を辞せざる決意をもって戦争準備を完成する。
③外交交渉により予定期日に至るも要求貫徹の目途なき場合は、直ちに対米英蘭海戦を決意する。
④その他の施策は従前の決定による。
というものであります。」
少し解説が必要になりますが、この御前会議以前の7月26日、米、英、蘭の3国は対日資産凍結という処置をとりました。
江戸時代までの日本であれば、国内から出る資源や産物だけで何とか国家を運営することができたのですが、明治以降、近代国家になった日本としては、それを支えるための物資が日本国内にはほとんど何もありませんでした。
とくに重要な戦略物資である「石油」は全然出ません。
当時、日本がどのくらい石油の心配をしたのかと言いますと、山本五十六が海軍次官のとき、海の水から石油が出るというインチキな話に乗ったというエピソードがあるくらいです。
つまり、石油の話となると山本五十六くらい頭脳明晰な人でさえも「冷静な判断」を失うほどに、日本にとって石油問題は頭の痛い政治課題だったのでございます。
「石油の一滴は、血の一滴」などという標語があったほどです。
因みに「近代国家にならなければ植民地にするぞ…」、と脅して日本を開国させたのは米国をはじめとした西洋列強の白人国家です。
さて、石油の備蓄が減れば減るほどに、当時の日本の「弾発力」は低下していきました。
弾発力とは「軍事力を背景にして外交交渉を有利に進める力」と思って頂ければ結構です。
空母であれ、戦艦であれ、戦闘機であれ、すべて石油を燃料にして動きます。
その石油がなければ、それらを動かすことはできない。
要するに、石油が枯渇すれば戦争すらできなくなり、丸腰で米国と交渉しなければなりませんので、石油の残量をみながら、交渉妥結の最終期限を区切る必要がありました。
事態打開のために戦争をはじめても、3日で石油が無くなってしまった、では論外です。
少なくとも1年、あるいは7〜8カ月の備蓄は必要です。
そこで帝国国策遂行要領のとおり、その期限が10月上旬ころまで、ということです。
すなわち、交渉がどうしても妥結しないときに備え、10月下旬を目途に自存自衛をまっとうするための戦争準備を完成しよう、という方針が9月6日の御前会議で決定したわけです。
むろん、米国に交渉に応じる気などさらさら無く、11月に入っても交渉は進展しませんでした。
米国が交渉を長引かせた最大の理由は、日本との戦争準備を進めるための時間稼ぎでした。
ご承知のとおり、我が国が対米英戦争を決意し開戦したのは12月に入ってからのことです。
9月6日の御前会議のとき、東條英機は陸軍大臣でした。
東條英機はこの会議で決まった10月下旬までに戦争準備完成という決定を非常に重く受け止め、「御前会議で決定したことを勝手に変えることはできない」と考え、このことがその後の彼の行動を縛っていくことになりました。
のちに総理大臣に就任したとき、「この御前会議の決定を白紙還元(撤回)してもいい」という条件を受け入れ、その上で総理に就任しています。
このような経過で我が国は、すなわち米英蘭に追い詰められて、やむを得ず戦争に突入したのです。