統帥権干犯問題に学ぶ

統帥権干犯問題に学ぶ

8月15日が近づいてくると、テレビや新聞では「先の大戦」の話題で喧しくなります。

今年もまたNHKは、例によってGHQ仕込みの「自虐史観」番組を放送していますね。

自虐史観という事実に基づかぬ歴史観を持ち出したところで、真理に迫った総括などできはしない。

このブログでは「なぜ戦争をし、なぜ負けたのか…」に少しでも肉薄していきたい。

我が国が戦争に突入し、敗戦に至った理由は様々にあるわけですが、その理由の一つとして「統帥権干犯」の問題があります。

A級戦犯として処刑された東條元首相が、刑の執行前に教誨師の花山信勝に託した遺書に「最後に軍事的問題について一言する。我が国従来の統帥権は間違っていた。あれでは陸海軍一本の行動はとれない」と極めて率直な言が語られています。

当時、陸軍士官学校の軍政学教程では、統帥権を「国軍を指揮運用する最高の権能」と教えています。

その権力は軍事のみに限定されるもので、軍事予算の決定や軍事政策そのものには関わりはもたない。

あくまでも国務と統帥が連携し、即ち政治が軍事をうまくコントロールしていくもの、という暗黙の了解があったものと思われます。

しかしながら、その「暗黙の了解」は昭和という時代に入って脆くも崩れ去ってしまいました。

統帥が国務の上に立ち、軍事が政治を自在に動かすことになってしまったのです。

「統帥権の独立…」が最初に言われるようになったのは、ロンドン海軍軍縮会議の後ごろだったと思います。

軍縮条約の締結により、「条約の妥結、やむなし」とする条約派(海軍省側=国務)と、これに反対する艦隊派(軍令部側=統帥)という対立構造が生まれ、やがて統帥権干犯問題へと発展していきました。

このとき、艦隊派は「勝手に条約を結んで縮軍するのは、天皇陛下の統帥権を犯すものだ…」と主張し、条約派を批判したわけです。

以降、統帥部と国務が分裂していき、軍部の発言力を強大化させていくことになりました。

当時、我が国には、制度として国務と統帥の両方を束ねる役職がありませんでした。

因みに当時の総理大臣は、国務を預かる内閣の一員にすぎません。

国務と統帥の上に立てるのは憲法上、天皇陛下だけですが、その天皇陛下も責任内閣制のもとで内閣と統帥部の決定を、事実上そのまま裁可することしかできませんでした。

今も昔も、我が国の天皇陛下は独裁者ではないのです。

要するに「当時の日本には国務と統帥部の両方に命令できる人がいなかった」と、戦争を決定した内閣の総理大臣だった東條さんが自分で言っているわけです。

なにせ、海軍が真珠湾を攻撃する際、首相であり陸軍大臣であった東條さんがそれを知ったのは直前のことだったのですから。      

あるいは、昭和19年2月、マーシャル群島で軍人・軍属1万人もが全員玉砕し、南の島の根拠地が根こそぎやられるような事態になっても、東條さんは事前に何も知らされていなかったようです。

また、大本営が大陸打通作戦という大作戦を行ったときにも、この作戦計画についても東條さんは事前に知らされていません。

東條内閣のみならず、歴代内閣は国務と統帥の調整に苦労をしていますが、苦労しなかったのは明治の元老が生きている間でした。

元老会議の決定は国務と統帥の両方に利き目があったからです。

伊藤博文や山縣有朋が生きているときには、国務と統帥の両方ににらみが利いたのです。

ところが昭和に入って元老がみんな世を去ってしまうと、西園寺公望ただ一人になってしまいました。

お公家さんの西園寺公望ひとりでは、統帥部を抑えることができませんでした。

これでは、外交と軍事の両輪で戦争を回避することもできないし、国務と統帥の連携で戦争を遂行することもできない。

ここに日本の悲劇があったのです。

そして忘れてはならないのは、この統帥権干犯問題について、火に油を注ぐようにして国会で政治問題化(政局化)したのは、立憲政友会の犬養毅や鳩山一郎ら選挙で選ばれた政治家たちです。

むろん彼らは、選挙に勝つため(政権を奪取するため)に、統帥権干犯問題を政局として利用したのです。

浅はかな党利党略が政党政治そのものの否定をし、軍部の台頭を許してしまったのです。

今の時代にも通じます。