この30年間にわたり行われてきた新自由主義に基づく改革、いわゆる「構造改革」ほど日本社会を破壊してきたものはありません。
構造改革とは、要するにあらゆる分野における「市場化の加速」だったと言っていい。
市場化とは、おカネで換算して売買できるようにすることです。
さて、多くの日本国民が誤解をされていますが、昔から市場(マーケット)などというものがあったわけではありません。
もともと人間というものは地域共同体の中に埋め込まれた存在であり、長い間、共同体の一員として暮らしてきたのでございます。
ところが、イギリスで産業革命が起きたことで様相が変わります。
産業革命は、主として蒸気機関を動力源とする生産資産を整備し、そこに労働力を投入して飛躍的に生産性を向上させることによって具現化されました。
要するに工場を建て、そこに労働者を部品や材料のように放り込む必要性がでてきたわけです。
しかし、そこで邪魔になるのが地域共同体です。
例えば、地域共同体のなかで農産物を生産し、親や祖父母の面倒をみながら土着的に生活している若者たちが大勢いたとしましょう。
資本家としては、こうした若者(安い労働力)たちを工場に連れてこなければならないわけですが、その最大の障壁となるのが地域共同体の存在でした。
そこで資本家たちは「共同体をぶっ壊し、個人を労働者としてバラバラにし、工場で働かせるしかない…」と考えるようになりました。
共同体から切り離された個人は、こうして「労働者」という単なる部品となったのです。
ざっくり簡単に言うと、このような過程を経て「労働市場」というものが生まれたのでございます。
あるいは原材料とか、食糧とかも然りです。
これらを市場で取り引きするためには、みんなで生産し、みんなに分配するという「農業共同体」をもぶっ壊す必要がありました。
おカネを支払えば取引(取得)できる、というようにしなければ「市場(マーケット)」というものは成立しません。
しかしながら、こうした「市場化」なる地域共同体の破壊に伴い、多くの弊害がでてくることになりました。
例えば、漁業が地域共同体の中に埋め込まれていたころには、乱獲による生態系の破壊など起こりようがありませんでしたが、市場化されるとそうはいかない。
おカネ儲けしたい人が大量の魚を買い付けたいとき、いつでも買えるようにしないとマーケットとして成立しません。
即ち、漁村共同体を破壊し、おカネで取引できるようにした結果、漁場環境が市場化によって破壊されることになったのです。
また、市場取引の際に使用する「貨幣」そのものも社会を破壊する一要素です。
ご承知のとおり、貨幣の取引はしばしば投機マネーを生み出します。
金融市場が極端に右へ行ったり左へ行ったり、上へ行ったり下に行ったり、あるいはデフレになったりインフレになったり。
そういうことになると多くの倒産や失業、あるいは自殺者を出すことになり、まさに社会が破壊されてしまうことになるので、一つのシステムとしての「中央銀行」というものをつくり、国家は貨幣による破壊から社会を守ろうとしているわけです。
かのカール・ポランニーは「中央銀行がナショナリズムを生んだ」という名言を残しています。
国家は中央銀行システムにより貨幣の変動から国民生活を守っているのだ、と。
前述のとおり、産業革命以降に発展した近代資本主義社会により、それまで地域共同体の中に埋め込まれていた個人は共同体から引き剥がされることになりました。
だからこそ、国家は労働保護法制や労働組合をつくって個人を守り、あるいは農業協同組合をつくって購買力の弱い個人を守り、環境規制を整備することで自然環境を保護してきたのです。
なのに、新自由主義に基づく構造改革はこれらの保護システムをことごとく破壊しています。
例えば「TPPなどの自由貿易をガンガンやりましょう…」「グローバリゼーションをガンガン進めましょう…」というのは、労働者を世界規模で壊し、環境を世界規模で破壊しようと言っているに等しい。
そのことを理解できない彼ら彼女ら新自由主義者たちは、それでも「市場に任せろ…」「小さな政府でやれ…」と叫び続けているのでございます。
本来、人間というものは共同体や環境の一部で有るべき存在です。
生まれながらに一人で生きていける人間なんていません。
親子という共同体の核(最小単位)が成立してはじめて、人間は生きていくことができるのです。
市場化というのは、それをも壊すものであることを理解しなければなりません。
残念ながら、1990年代以降に加速した新自由主義に基づく構造改革路線は、未だ絶滅していません。
絶滅どころか、それを掲げる政党が躍進しています。
国民よ、目を覚ませ。