スギ花粉に苦しむ季節

スギ花粉に苦しむ季節

ついに、スギ花粉に苦しむ季節がやって参りました。

私は一昨日から酷い症状に苦しんでおります。

発症初日は例によって目のかゆみからはじまったのですが、今回はかゆみを通り越して眼球に痛みを感じるほどでした。

さて、花粉症が我が国で最初に報告されたのは、1964年のことです。

その経緯は次のとおりです。

ご承知のとおり、わが国では大東亜戦争の際に、多くの木造住宅が米軍の投下した焼夷弾により焼き尽くされました。

そのため、木材の元となる樹木を含め、急激な木材不足に苦しんでいたわけです。

ゆえに戦後、木材不足を解消するために『造林臨時措置法』が制定されることになりました。

たいていの森林には所有者が存在しますが、政府は都道府県知事に緊急で造林を行う土地の指定権を付与し、もしも森林所有者が造林しない場合には第三者に行わせることができるようにしました。

「荒れた国土に緑の晴れ着を!」というスローガンのもと、山梨県で第1回全国植樹祭が開催され、天皇皇后両陛下自らお田植えを行い、その重要性を世に知らしめることになりました。

この行事は毎年行われ、今なお続いています。

また、それほどまでに造林が急がれたのは木材確保のためだけではありません。

荒れ放題になった森林は整備が行き届かず、土砂災害などの被害を助長させてしまっていたのです。

要するに、治山という側面においても早急に造林する必要性があったわけです。

そして全国に植えられた苗木は、スギでした。

なぜ、スギだったのか。

スギなどの針葉樹は広葉樹と違って加工しやすく、軽くて強度もあるから建築物の柱や梁に使えて重宝するからです。

何より、針葉樹は成長速度に優れています。

広葉樹は木材として使えるようになるためには150年程度を要しますが、針葉樹はその3分の1の50年もあれば立派に育ちます。

因みに、チェーンソーなどの動力工具が普及したのは1954年からです。

今では重機などで終わらせる作業は当初は完全に手作業で行われていたでしょうから、造林業に携わった人たちにとっては命がけのお仕事だったことでしょう。

それでも、その苦労をねぎらうかのように国の制度は拡充されていきました。

例えば、造林業は制度金融の対象とされ、低利かつ長期の融資を受けられるようになったことから、益々もって造林は進み木材需要は高まっていきました。

なるほど、ここまではよかった。

問題はここからです。

1960年ごろになると、国産木材よりも安価な輸入木材が国内市場を席巻しはじめたのです。

やがて「林業に未来はない…」と言って撤退する経営者が続出、林業従事者も少なくなり野放しとなるスギが生まれ始めました。

こうして日本各地に大量のスギが蔓延るようになっていったのです。

前述のとおり、1964年にはじめてスギ花粉による花粉症が報告され、永い年月を経て国民的な病気として認知されるようになったわけです。

現在、日本の山林全体の40%が戦後に植えられた人工林です。

全世界における人工林割合が10%であることと照らし合わせても、結果として過剰な植林を行ったのかがわかります。

花粉を撒き散らすだけの手つかずの樹林が大量に存在しているのですから、多くの国民が花粉症というアレルギー性疾患に苦しんでいるのも不思議ではありません。

とはいえ、もちろん戦後の造林は、その後の日本国の復興を考えるうえで絶対に避けて通ることができなかった事業だったと思います。

今後重要なのは、日本国民の健康を守るため人工林の伐採を支援する仕組みをつくることではないでしょうか。

グローバリズムが終焉した今日、輸入木材などに頼らず、国内に余りあるスギを大いに活用するべきです。