世が世であれば、本日1月8日は陸軍の観兵式が挙行された日です。
明治5年の今日、明治天皇が日比谷操練場にて「将兵御親閲」に臨まれたことから、以後、この日が「観閲式(陸軍はじめ)」となりました。
むろん、あの敗戦により軍隊は解体され、その後、自衛隊が再整備されつつも、この日に観閲式が行われたことは一度もありません。
それもそのはずで、とりわけ陸上自衛隊は戦前の陸軍とは完全に関係を断たれたかたちで整備されたのですからなおさらでしょう。
さて、戦争終結後、焼け野原となった日本ですが、その日本に対し米国は合計18億ドルの救済復興支援金を与えました。
当時の18億ドルといえば、現在の貨幣価値で円換算すると約12兆円相当になりましょうか。
18億ドルのうち13億ドルは無償供与です。
この救済復興支援金は、米国の「ガリオア」と「エロア」という二つの基金から供出されたものです。
ガリオアは、Government and Relief in Occupied Areas(占領地域統治救済資金)の頭文字をとって「ガリオア」で、昭和21年から提供されており、飢餓や病気等から日本国民を救うために食料・肥料・医薬品・石油などが供給されました。
例えば、ガリオアによって提供された援助物資は…
・コメ 11万トン
・小麦 500万トン
・塩 52万トン
・砂糖 80万トン
・缶詰 16万トン
・肥料 300万トン
・牛 1万頭
…他にも米国から市民レベルで、総額5,000万ドル相当の物資が、学童、青少年を対象に無償配布されました。
5,000億ドルを現在の貨幣価値で円換算すると、約4,000億円です。
なぜ米国がこれほどの援助の手を日本に差しのべたのかといえば、日本を貧困のままにしておくと、やがて共産化してしまう恐れがあったという政治的理由もあったでしょうが、なによりも米国が援助を惜しまなかった最大の理由は、次の一件にあったのだと思います。
その一件とは、昭和20年9月27日に行われた昭和天皇と連合国総司令官・マッカーサー元帥との会談です。
終戦のご詔勅を発せられてから約1か月半が経ち、陛下はマッカーサー元帥の待つ米国大使館に向かわれました。
マッカーサー元帥は「どうせ命乞いに来るのだろう」と高をくくり、車寄せまで出迎えもせず、略服である開襟シャツのまま椅子に座り、足を組んで陛下の到着を待っていたといいます。
しかしながら、会談がはじまり、陛下のお言葉にマッカーサー元帥の顔色が変わります。
マッカーサー元帥に対し、陛下は次のように語ったと伝えられています。
「日本国天皇は、この私であります。戦争に関する一切の責任はこの私にあります。私の命においてすべてが行われましたかぎり、日本にはただ一人の戦犯もおりません。絞首刑はもちろんのこと、いかなる極刑に処されても、いつでも応ずる覚悟があります。しかしながら、罪なき8,000万の国民が住むに家なく着るに衣なく、食べるに食なき姿において、まさに深慮に耐えぬものがあります。温かき閣下のご配慮を持ちまして、国民たちの衣食住の点にのみにご高配を賜りますように…」
(このブログを書いているだけで、目に涙が浮かんできます)
このときの陛下のお言葉をもって、マッカーサー元帥の対日政策が変わったと言っていい。
会談の後、マッカーサー元帥は「どう考えても陛下の責任ではないことについても、陛下は自らその責を負おうとされていた」と語ったとも伝えられています。
マッカーサー元帥は気づいたにちがいない。
天皇と日本国民の関係は「家族」であることを…
愛する家族のためなら命を惜しまない心は万国共通でしょうから。
わが国の天皇は家族同然に国民を愛し、愛された国民は心から天皇を敬い日本という共同体のために尽くす。
これが日本の国体です。