「財源論に陥ったら、政策論は負けである」
いま私が川崎市民及び日本国民に対して最も訴えたいことの一つです。
とりわけ、おカネがないことを理由に行政サービスを縮小することほど馬鹿げたことはありません。
川崎市のみならず全国をみわたしても、財源問題を主たる要因として各種事業を縮小する自治体は多いだろうと思います。
なぜ、このようなことが起きるのか?
その答えは明白で、行政運営に携わる人たちのほとんどが「おカネとは何か?」を正しく理解していないからです。
例えば、銀行は個人や企業に対しておカネを貸し出す機関(金融機関)ですが、銀行がおカネを貸し出す際「そのおカネがどこから調達されるものなのでしょうか?」と尋ねられたとき、明確に答えられる人は果たして何人いるでしょうか。
「そりゃぁ、預金者のおカネに決まってるじゃん…」と思っている人がほとんどだと思われます。
もしそうであるならば、銀行が貸し出しを行う際には「あなた様の預金を〇〇さんに又貸しさせて頂きます…」という報告が預金者に対して必要になるのではないでしょうか。
大切な財産が他人に又貸しされるのですから。
むろん、そんな報告を銀行から受けた人はいないはずです。
実は銀行は、「貸出し」によって預金通貨というおカネを無から創造しています。
無から創造されるのですから、たんに通帳に数字が記載されるだけです。
これを「万年筆マネー」あるいは「キーボードマネー」と言います。
誰か様の預金を、他の誰か様に又貸ししているわけではないのでございます。
ただし銀行は「口座から現金を引き出したい…」と言われたらそれに応じなければなりません。
なので銀行は、いざと言うときの現金の引き出しに備えて、中央銀行に一定額の準備預金を積み上げておく必要があります。
このことは法律によって決められています。
我が国の場合、中央銀行に預けられた準備預金のことを「日銀当座預金」と呼んでいます。
このように銀行には、求められたら「預金」を「現金」と交換しなければならないという義務が課せられているわけですが、銀行の預金(預金通貨)は、いつでも現金と交換してもらえるという保証があるがために「おカネ」として信頼されているのでございます。
では、どうして現金は「おカネ」として信頼されているのでしょうか。
そこがポイントです。
実は、これに主流派経済学が理論的に答えることは至難の業なのです。
なぜなら彼ら彼女らが有している貨幣論は、おカネそのものに金銀などの何らかの価値が内在していることを前提とする「商品貨幣論」だからです。
ところが福沢諭吉が印刷されている一万円札の紙としての価値は、たったの22.2円です。
22円相当の紙切れを、どうして私たちは「一万円札」としての価値を認めているのでしょうか。
これを理解できないと、国政であれ地方行政で、常に財源論に迷い込んでしまい、正しい政策を遂行することができません。
本日17時から行われる、オンライン市政報告会で詳しく説明させて頂きます。
正しい貨幣論こそが、日本を救い、地域を助けます。