混迷を極めるウクライナ情勢ですが、ここにきて少しずつロシアが息を吹き返してきたようです。
プーチン大統領の指示の下、今後とも東部ドネツク州の完全掌握を目指すとみられます。
これに対してウクライナ側も欧米の軍事支援を受けながら攻勢に転じる構えをみせており、ひきつづき東部を中心に激しい攻防が展開されることになりそうです。
それにつけても、ロシアのウクライナ侵攻が第三次世界大戦になることもなく、あるいは大国を巻き込んだ大掛かりな国家間決戦にまで波及することもなかったのはせめてもの救いでした。
おそらく今後もそうした事態に向かうことはあり得ないでしょう。
米国も当然、今回のウクライナ危機を「どう収めさせるか…」を慎重に検討計画しているはずで、今回の紛争を「地球の終焉」まで拡大させることはないと思います。
むろん、それを100%保証できる人などいませんが…
先の大戦(第二次世界大戦)以降の武力衝突は、①国内紛争か、②長い歴史をもつ国境紛争に広く分類され、少なくとも国連加盟国同士の国家間決戦に至らず限定的な局地戦にとどめられてきました。
今回のウクライナ危機においても、米国や欧州諸国はウクライナに対して武器支援を行ってはいるものの、直接的にロシアとは戦いません。
プーチン大統領ご自身もまた「これは戦争である」とは言っておらず、あくまでも「特別軍事作戦である」と言っています。
もちろん「だからいい」などと言っているのではなく、結果として大国間同士の大戦争にも世界大戦にも及んでいないのは不幸中の幸いだったと言うことはできると思います。
ではなぜ、世界大戦や国家間決戦はなくなったのか?
皮肉にもそれは「核」の効用というほかありません。
その理由は、核保有国同士の国家間決戦は「核」がストッパーとなって発動不可となり、非核国同士の国家間決戦は核保有国たる軍事大国によって制御されてきたためです。
世間には「核を廃絶すれば世界は平和になる」と不思議なことを叫ぶ人たちが大勢いますが、核が廃絶された瞬間がカオスのはじまりであることを、彼ら彼女らはどうしても理解できないらしい。
川崎市もまた、昭和57年(私が川崎市議会議員に初当選する遥か以前)に『核兵器廃絶平和都市宣言』なる恥ずかしい宣言を市議会全会一致で議決しています。
関係者に言わせると、全会一致で議決されたことが名誉なことらしい。
もしも当時、私が川崎市議会議員であったなら、まちがいなく唯ひとり反対にまわり全会一致にはさせませんでした。
一方、だからといって「防衛力を強化するために日本も核を保有すべきだ」という意見にも私は与しません。
先日も「尖閣を守るには核をもつしかない」と主張されている人がおられましたが、何かの誤解かと思われます。
日本が核を保有しようがしまいが、中国が尖閣諸島を強奪するために核をちらつかせることはしないし、人民解放軍が直接的に尖閣諸島に上陸を試みることもないでしょう。
おそらくは大量の武装民間人を上陸させ実行支配の事実化を図ろうとするはずです。
それに対し「核」で対処することなど不可能です。
尖閣諸島は自衛隊による領域警備によって真正面から防衛すべきです。
残念ながら、それに必要な法整備が今もってなされていないことを国会議員も日本国民も猛省しなければならない。
日本を含め世界にとっての脅威は、なによりも「核の拡散」です。
拡散すれば、核によるストッパー機能が消失してしまいますので。
もしも日本が保有することになれば、当然のことながら韓国をはじめ他の国々も追随して保有することになるでしょう。
ゆえに拡散につながる判断は避けられるべきだと思います。
ただし、いつでも核を保有できる準備とロードマップだけは検討しておく必要はあるでしょう。
当面は、核弾頭・非核弾頭両用の中距離ミサイルを保持して敵地反撃能力とすることは有力な一案となるのではないでしょうか。
いずれにしても「核を保有すれば平和になる」論も、「核を廃絶すれば平和になる」論も、ともにリアリズムがありません。
いつもそうですが、「右」にしても「左」にしても「リアリズムがない…」という点においては常に同じ穴の狢です。
なお「ヨーロッパの核シェアリング(共有)を真似するべきだ」という意見もありますが、それには反対します。
ヨーロッパの核シェアは、ソ連の大戦車軍団が西進してきた際、それを止められる手段が戦闘機からの核爆弾投下しかなく、在欧米空軍だけでは戦闘機数が足りないので、米軍から「乗員付き戦闘機借用」を依頼されたものなのであって、しかも弾薬庫の鍵はダブルキーとなっており、米軍が開けないかぎり独、伊、ベルギー等が勝手に使うことはできません。
即ち、シェアしたからといって、それらの国々には核使用の自由も責任もないのでございます。