昨夜、東北南部で発生した最大震度6強の地震により、東北電力管内で約15万戸(東京電力管内でも約200万戸)が停電し、新幹線が脱線するなど各種公共交通機関にも大きな影響がでています。
70歳代の男性の死亡も確認されており、福島第一原発では5号機の使用済み燃料プールで冷却機能が一時停止したとのことですが、こちらは既に機能を回復し放射能被害はでていないらしく、とりあえず安心しました。
東北自動車道(宮城県と福島県の県境近辺)では広範囲にわたって路面に亀裂が入り、上り下りの両線が通行止めとなってもいるようです。
私の住む川崎市多摩区の揺れは震度4でしたが、とにかく揺れの大きさよりもその長さに驚かされました。
長く感じたのも当然で、発生直後(約2分後)に別の地震が発生したらしい。
世界に類例のない自然災害大国に生まれ育った者として常日頃からある程度の覚悟はできているものの、大きな地震が来るたびに「震源地は?」「海洋型か断層型か?」「エネルギーの大きさは?」「地震の範囲は?」「その被害は?」等々の不安が瞬時に襲いかかります。
発生直後、テレビでは「津波に備えろ…」のアナウンスが何度も繰り返されていましたので、再び東日本大震災のような惨劇が起こるのではないかと懸念しておりましたが、とりあえず津波被害はなかったようで何よりです。
とはいえ、引き続き余震に警戒しなければならない。
さて、津波警報が解除されると、そのたびに私は「稲むらの火」を思い出します。
和歌山県に広川町という小さな町があるのをご存知でしょうか。
広川町は昔、「広村」と呼ばれる海外沿いの村でした。
この村は江戸時代以前から引き継がれてきた農業や漁業を生業とする人々が暮らし続けてきた農漁村です。
今、この村があるのは、一人のこの地の名士のおかげです。
その名士の名は、浜口梧陵です。
もしも浜口梧陵がいなければ、広川町は現在の地図には載っていなかったかもしれません。
1854(嘉永7)年11月、この広村を安政南海地震が襲いかかりました。
安政南海地震は、東日本大震災と同じで巨大な津波をともなう海洋型の地震です。
地震発生直後、広村にいた浜口梧陵は大津波が来ることを察知します。
「このままでは、大勢の村人たちが津波に呑み込まれて死んでしまうにちがいない…」と確信したわけです。
そこで浜口梧陵は何をしたか…
咄嗟に、丘の上に保存してあった「稲むら」に火をつけることを思いつきます。
稲むらが丘の上で燃えていれば、津波から逃げようとする村人たちが皆、その火を目指して丘にやってくるのではないか…と彼は考えたわけです。
稲むらとは、その秋に収穫した稲の束のことで、それはまさに村人たちの食料であり貴重な作物でした。
浜口梧陵は「村人たちの命を救うためには、そんなこと言ってられない…」と、一気に火をつけていきます。
その作戦は的中します。
多くの村人たちが、その「稲むらの火」をめがけて丘を駆け上がってきたのです。
そして多くの村人たちが丘の上にたどり着いた直後、巨大な津波が広村を飲み込み、家々を押し流していきました。
もしも「稲むらの火」がなければ、多くの村人がその津波に呑み込まれ命を落とす結果になっていたことは、まさに火を見るより明らかでした。
といって浜口梧陵は、ただただ稲むらに火をつけただけではありません。
その後が凄い。
村人たちは「稲むらの火」により大津波から命を救われたものの、家も農具も田んぼも畑も何もかも全て失ってしまったわけです。
これからどのようにして生きていけばいいのか途方に暮れてしまった村人たちの多くは村を捨てて出ていこうとしました。
それを見た浜口梧陵は「この危機を乗り越えるために自分に何かできることはないか」と考えます。
そして彼は、この地の浜辺に「堤防」をつくりあげるという「土木事業」を速やかにはじめることを思い立ちます。
浜口梧陵が土木事業を決意した理由は2つあります。
①今ここで大きな土木工事を行い、仕事を失った村人たちを雇えば、村人たちの懐に最低限の資金が入ることになる
②その工事を通してつくられた「堤防」が村の安全を保障し、人々に希望の光を与える
即ち、雇用創出という公共事業のフロー効果、及び堤防によって長期的に安全が確保されるという公共事業のストック効果という2つの効果を考えたわけです。
これこそ「復興」です。
問題は事業費です。
残念ながら浜口梧陵の時代は「金貨銀貨こそがおカネだ」と考えられていた時代です。
なので、幕府や藩がおカネを出してくれるはずもない。
そこで浜口梧陵は私財をなげうって堤防をつくることを決断しました。
結果、広村を捨てる村人は一人もおらず、村は甦り見事に復興したのです。
稲むらに火をつける咄嗟の機転と決断力。
共同体を守るためにインフラ整備の必要性を説いた説得力と行動力。
そして私財を投じるという自己犠牲の精神。
今の政治に欠けているものを浜口梧陵はすべて持っていたのです。