長崎県の西彼杵半島北部に、西海市(さいかいし)という人口約26,000人ぐらいの地方自治体があります。
この自治体が管理する横瀬浦公園には、等身大のルイス・フロイス像が立っています。
ルイス・フロイスとは、ご承知のとおり戦国時代後期に日本を訪れ、あの織田信長や豊臣秀吉にも謁見したポルトガル人宣教師です。
西海市は横瀬浦公園にルイス・フロイスの等身大の像を立てて、次のような観光案内をしています。
「日本初のキリシタン大名・大村純忠が開港し、ポルトガル人宣教師ルイス・フロイス上陸の地とされる横瀬浦にある公園。展望台からは、かつて南蛮船の目印とされた白い十字架の建つ「八ノ子島」や港町の風景が楽しめます」
大村純忠は横瀬浦周辺の広大な土地を領土的野心むき出しのイエズス会(ポルトガル)に差し出した男で、それを自治体として賞賛することが現代においてどのような意味をもっているのか、という視点を欠いた実に愚かな案内です。
我が日本国の国益を踏まえて観光案内をしない西海市は、一体どこの国の自治体なのでしょうか。
例えば現行刑法では、内乱罪(第77条)や内乱予備罪・内乱陰謀罪(第78条)が謳われています。
内乱罪とは「国の統治機構を破壊し、又はその領土において国権を排除して権力を行使し、その他憲法の定める統治の基本秩序を壊乱することを目的として暴動をした者」に適用され、死刑などに処せられるものです。
つまり大村純忠の行為は、現在でいうところの内乱罪か内乱予備陰謀罪に該当します。
大名とはいえ、信教の自由としてキリスト教に帰依することが認められても、世界中に領土を拡張し、帰依した信者を巻き込み統治させるというイエズス会の思想侵略、領土侵略に追随して加担する行為は、もはや「信教の自由があるから…」と言って擁護されるものではありません。
大村純忠が横瀬浦の港とその周辺の広大な土地をイエズス会に寄進したのは永禄5(1562)年のことです。
翌年、大村純忠の兄弟である後藤貴明が、大村家臣団と横瀬浦奉行である針尾貞冶らと挙兵します。
横瀬浦港に向けて進軍し、イエズス会に支配された横瀬浦の港を焼討ちし、ルイス・フロイスらイエズス会とその同調者を追放しました。
ルイス・フロイスは、這々の体で長崎に逃げ延びます。
その後、大村純忠は懲りずルイス・フロイスを庇護し続け、なんと天正8年(1580)年には長崎の統治権をイエズス会に与えていしました。
大村純忠は長崎をイエズス会専用の港にすることで南蛮船がもたらす貿易利益を独占しようとしたのでしょうし、一方でイエズス会はポルトガル領長崎を拠点にして、さらなる布教と領土拡張を目論んでいたのだと思います。
要するに、後藤貴明と針尾貞冶たちがフロイスが支配しようとした横瀬浦の港を焼き払ったのは、大村純忠とイエズス会による「領土侵食」を阻止するためです。
彼らの強兵が大村純忠を排除するだけの挙兵であれば、横瀬浦の港を焼き払う必要はないからです。
何より大村純忠は「異教徒は殺せ!」とのフロイスの教えを忠実に守った。
仏教徒の居住を禁止し、自領内の寺社を破壊し、先祖の墓所も打ち壊しました。
加えて、領民にもキリスト教の信仰を強いて僧侶や神官を殺害しています。
改宗しない領民は殺害されたり、土地を追われたり散々でした。
こうした蛮行により家臣や領民の反発を招くことになったことが後藤や針尾たちの挙兵動機でした。
彼らの行動は、外国勢力の侵略から我が国の領土を防衛する救国運動の嚆矢となったわけです。
以上のような事実を、後に豊臣秀吉が知ることになります。
秀吉は悟ります。
これがスペイン・ポルトガルによる日本征服の第一歩となる…と。
ゆえに秀吉は、天正15(1587)年にバテレン追放令を発布し、長崎のイエズス会が領土として占有していた土地を召し上げ、豊臣政権の直轄領としたのです。
その後、徳川幕府によって禁教令が敷かれ、イエズス会らの布教を口実とする領土的侵略からわが国は守られました。
即ち、後藤貴明と針尾伊賀守貞冶の義挙が外国の侵略からわが国を防衛する救国運動の嚆矢となったのです。
しかしながら、これら「バテレン追放令」や「禁教令」は決して宗教弾圧ではありません。
これらはまさに、布教に藉口したイエズス会の侵略行為から祖国の領土と領民を守った防衛行為と言うほかない。
本来、西海市が為すべきことは、、侵略者の頭目であるルイス・フロイスや国賊の大村純忠を讃えることなどではなく、その奪還に命を賭けて邦土僣窃を阻止しようとした後藤貴明や針尾貞冶の「顕彰碑」を横瀬浦公園に建立することです。