一昨日から発足した岸田内閣ですが、新たに「経済安全保障」を担当する国務大臣が設置されました。
大臣に起用されたのは元大蔵官僚で当選3回の小林鷹之氏です。
昨夜、小林大臣の就任挨拶をニュースで見ましたが、その挨拶を聞いて違和感を感じたのは私だけでしょうか。
小林経済安保相は「経済と安全保障がまさに融合していく世の中になっている。安全保障は安全保障、経済は経済、こういう風に割り切れる時代は終わりつつある」と述べられました。
つまり「安全保障は安全保障、経済は経済でわり切る時代は終わった」と言っていますが、えっ、ちょっとまって。
今まで自民党は、経済と安全保障を割り切っていたんですか?
甘利幹事長も同じ趣旨のことを発言されていますが、こうした発言を聞いてしまうと実にがっかりしてしまいます。
結局、我が国はこの種の(政治家としての素養に欠ける)人たちによって政治行政が運営されているのか、と。
「経済」という言葉はもともと「経世済民」の略語です。
幕末にeconomics(エコノミクス)という言葉が移入されたときに、我が国の知識者たちが「エコノミクスとは、要するに経世済民のことだろ。だったらその二文字をとって経済と訳せばいい」となりました。
約したのは福沢諭吉だと言われています。(諸説あり)
因みに、私は福沢諭吉が訳したにちがいないと思っています。
経世済民は、中国の古典(隋の時代の王通『文中子』)に由来しています。
民を済(たす)け、世を経(おさ)める。
今風に言うと「国民の安全を守り、国民を豊かにする政治」となります。
何が言いたいのかと申しますと、そもそも「経済」という概念のなかに「安全保障」が含まれているのです。
これを理解されておられない人たちの多くは、安全保障=国防、経済=カネ儲け、という固定観念があるのだと推察します。
むろん、安全保障とは国防だけではありません。
防災、治安、水、食料、エネルギー、物流、あるいは医療・介護や教育も含め、国民が生活する上で必要不可欠な資源や制度や機能は悉く安全保障の対象です。
新たに設置された『経済安全保障大臣』の所管が、各省庁を横断的にまたがっているのはそのためです。
これらはどれ一つとっても原則的には外国に依存してはならないし、常にメンテナンスを怠ってもならない。
1990年代以降、これらの安全保障を、新自由主義(ネオリベラリズム)に毒された我が国の政治家たちが(けっして自民党だけはない)構造改革の名のもとに破壊してきたのです。
結果、たしかに構造改革は、一部特定の人たちにとってはカネ儲けになりました。
まさに、経済(金儲け)と安全保障が切り離されてきたのです。
小林大臣に申し上げたいのは「切り離す時代は終わった」のではなく、経済と安全保障は時代に関係なく絶対に切り離すことができないものなのです。
そして総理大臣こそが、経世済民担当大臣なのです。
岸田内閣も前途多難です。