軍事外交のリアリズム

軍事外交のリアリズム

川崎市は、昭和57年6月に全国の自治体に先駆けて『核兵器廃絶平和都市宣言』を議会で議決した自治体です。

当時の川崎市議会議員たちがどこまで真剣に議論したのかわかりませんが、議決された宣言文を読むと次のようにあります。

「川崎市は、わが国の非核三原則が完全に実施されることを願い、すべての核保有国に対し、核兵器の廃絶と軍縮を求め、国際社会の連帯と民主主義の原点に立って、核兵器廃絶の世論を喚起するため、ここに核兵器廃絶平和都市となることを宣言する」

すべての核保有国に核の廃絶を求め、また廃絶のための世論を喚起する、と宣言するも、いずれも未だに願いは叶わず。

廃絶どころか、今や拡散する危険性の方が高まりつつあります。

きっと「非核三原則」でさえ、おそらくは守られていないでしょう。

これだけ長きにわたり無視され続け、実現の目処が立たない宣言ならば一度はリアリズムの観点から見直すべきだと思うのですが…

さて、なぜ核は廃絶されないのか。

原爆が広島・長崎に投下されたことにより、皮肉にも先の大戦以降、核兵器は基本的に使えない兵器になりました。

朝鮮戦争のみならず、ケネディ政権下の米国でも、キューバ危機の際に米ソが核戦争の瀬戸際まで行ったことがあります。

しかし、いずれの場合も政治がその利用を許しませんでした。

現在のロシア・ウクライナ戦争でも、プーチン大統領が小型戦術核の使用をチラつかせはするものの、未だに使用されていません。

では、「使われない兵器」は無意味なのでしょうか。

そんなことはありません。

第二次世界大戦以降の国際秩序は、この「使われない兵器」によって支えられてきた面は否定できないはずです。

また、この「使われない兵器」があることで、使われる兵器(通常兵器)による戦争を地域戦、制限戦、代理戦、即ち限定戦争にしてきたのも事実です。

もしも「使われない兵器」の存在がなければ国家間決戦(絶対戦争)は抑止されず、世界はとっくに第三次、第四次の世界大戦に突入していたはずです。

これまた皮肉なことですが、核兵器廃絶を叫ぶ人たちによる「核の恐ろしさ」の喧伝が、国家間決戦を封じ込める効果を高めてきたとも言えます。

要するに、もしもこの世界から核が廃絶されてしまうと、かえって世界平和が遠のくのです。

核兵器は廃絶できても、核兵器をつくる技術は物理的に廃絶できない。

ここに、核が廃絶されない最大の理由があります。

それよりも現実的に恐ろしいのは「核の拡散」です。

私の愛読書『フォーリン・アフェアーズ』では、今年に入ってから朝鮮半島の専門家たちが口を揃えて「韓国が望むなら核をもたせるしかないだろう…」と言い出しています。

また4月号でも、ギデオン・ローズ(米外交問題評議会の非常勤シニアフェロー)が「韓国は、おそらく、この拡散潮流に乗って最初に核を保有する国になるだろう。ソウルが核武装すれば、東京もそれに続き、最終的にはオーストラリアもこれに加わるかもしれない。ヨーロッパでも同じ流れが生じつつある」と述べています。

こうなると、すなわち核ドミノが起こると、「使われない兵器」による抑止力は効かなくなります。

米国、中国、ロシア、北朝鮮、韓国、オーストラリア、これら日本を取り囲む国が核保有国となり、わが国だけが保有しない場合、軍事的均衡は大いに損なわれ、日本だけが外交的に不利な状況に追い込まれることになります。

軍事なき外交はあり得ない。

よって、核兵器不拡散条約(NPT)はもともと日本に核を保有させないためにつくられた国際条約ですが、それでも日本はなおも国際社会に向けて「核の不拡散」を訴え続け、それと同時に、場合によっては保有せざるを得ない覚悟をも示しておかねばならないと思います。

リアリズムなき政治は、やがて国民を不幸にします。