1942年の今日、川崎市は米軍による空襲を受けました。
前年の真珠湾攻撃以来、日本は破竹の勢いで勝ちまくっていましたので、この時期の日本は未だ国土周辺の制海権を奪われてはいません。
にもかかわず突如として、東京、川崎、横須賀、名古屋、神戸が爆撃されたのです。
爆撃したのは、ジミー・ドーリットル中佐が率いるドーリットル爆撃機隊でした。
終戦間際の空襲に比べれば爆撃の規模は小さかったものの、開戦以来初となったこの空襲が対米戦の一つの転換点になりました。
なぜなら、このドーリットル爆撃機隊による空襲がきっかけで約2ヶ月後にミッドウェー海戦が行われ、帝国海軍が惨敗するからです。
ミッドウェーでの敗北以降は、坂を転げ落ちるようにして敗戦に向かっていったのは周知のとおりです。
ドーリットル爆撃機隊16機の爆撃機は、どれも陸軍機でした。
そもそもドーリットル自身が米陸軍の軍人ですので。
といって、前述のとおり、この時期の日本は未だ敵の爆撃機が離陸できる島(サイパン島など)を奪われていません。
にもかかわず、陸軍機が爆撃してきたのです。
そのからくりは、なんとドーリットル爆撃機隊の陸軍機16機は米海軍の空母から発艦してきたのです。
実はこの日、日本の漁船がミッドウェー島から出港した米軍の空母機動部隊を発見しており、すぐに日本の参謀本部に電信で報告しています。
そのため、この漁船は米海軍に発見されて撃沈されています。
この犠牲的な報告を受けているにもかかわらず、日本の参謀本部は空襲警報を発令しませんでした。
理由は、その距離が遠かったため、日本への空襲は翌日になると判断したからです。
海軍機は空母から飛び立つために、陸軍機よりも小さく設計されていますので、長距離空襲はできません。
ゆえに、敵空母がもっと日本に近づいてから飛び立つものと参謀本部は判断したわけです。
ところが、初戦から負け続きの米軍は奇策を考え、なんと海軍の空母にドーリットルの陸軍機を乗せて発艦させたのです。
つまり、日本としては「翌日に来る…」と想定していた爆撃が今日来たわけです。
それが4月18日です。
陸軍機は、空母から発艦することはできても空母に着艦することはできない。
だからドーリットル爆撃機隊は、東京、川崎、横須賀、名古屋、神戸にパラパラと爆弾を落として、そのまま日本上空と東シナ海を通過してシナ大陸に着陸したわけです。
陸軍の飛行機を航空母艦から飛ばすという発想は、セクショナリズムに固まっていた日本の軍人にはまったくありませんでした。
そもそも、陸軍と海軍がそのような協力し合うこと自体が最後までありませんでした。
このドーリットル爆撃機隊による初の本土空襲を受けて、参謀本部はミッドウェー島の攻略を決定することになります。
すなわち、わが国の惨劇はここからはじまったのです。