国家という用語は、「国」と「家」という言葉でできています。
国はもともと「國」で、国境(領域)を表す「囗」、武装した城邑を表す「或」から成り、國をもって家と成す意です。
「家」は、現在生活している父母、祖父母、兄弟姉妹など、家族という横軸(家で言えば梁)と、祖先から子孫へと連綿として続く血統という縦軸(家で言えば柱)とによってできています。
当然のことながら、柱と梁がなければ家は建ちません。
そして、個々の家が集まってできた共同社会にも縦(柱)と横(梁)の関係(社会のフラクタル構造)があり、これらを取り囲んで「国家」が成立しています。
ちなみに、国家・社会の縦と横の同質性を守るための国体防衛権は、自衛権や抵抗権と同様に自然権として認められ、国家・社会の命脈を維持するという本質的な規範の上に存在しています。
こうした国体防衛権は、単に国家や社会全体が享有するのみならず、その構成員たる個人個人がそれぞれ享有しているものです。
私たち日本国民が死守せんとすべき国体を脅かし、またはその虞のある他者に対しては断乎とした態度で臨まなければならない。
さて、本日2月11日は紀元節で、「建国記念の日」(「建国記念日」ではない)です。
他の祝日が祝日法で日付を定めているのに対し、紀元節のみが「政令で定める日」として2月11日に定められるに至った経緯については、既にご承知のことと思います。
そして明治22年の今日、大日本帝國憲法が発布されています。
むろん、この日が紀元節だったからでしょう。
私は、現行憲法(占領憲法)は憲法としては無効であり、帝國憲法は今なお現存し、その第76条第1項の無効規範の転換理論によって講和条約の限度内において現行憲法の効力を認める、とする立場です。
我が国の自称・保守たちは、なぜか占領憲法の改正しか叫ばない。
マッカーサーがつくった占領憲法の規定に則って憲法を改正することは、占領体制(マッカーサー体制=属国体制)に日本人自らがレジテマシーを与える国体破壊行為です。
もしも占領憲法が憲法として有効だと言うのであれば、占領憲法の方が条約等よりも優先するという論拠が必要になりますが、残念ながら占領憲法からはその論拠を導き出すことはできません。