12月23日、今日は上皇陛下のお誕生日であるとともに、東京裁判においていわゆる「A級戦犯」とされた東條英機元首相ら7名が処刑された日でもあります。
上皇陛下の当時のお立場はむろん「皇太子」であられたわけですが、GHQは次の天皇陛下の誕生日を、敢えて「処刑の日」にしたことは言うまでもありません。
執行の日時が言い渡されたのは、二日前の12月21日のことです。
巣鴨プリズンには絞首台が5基しかなかったため、二組に分けて死刑が執行されることになりました。
一組目は、土肥原賢二、松井石根、東條英機、武藤章。
二組目は、板垣征四郎、広田弘毅、木村兵太郎。
巣鴨プリズンで教誨師をしていたのが花山信勝(はなやま しんしょう)さんという浄土真宗本願寺派の僧侶で、花山僧侶は7名一人ひとりと面談し、家族への伝言や最後の希望を聞き入れたという。
執行当日、まず一組目の4名が独房から出され死地に赴きました。
その際、彼ら4名は看視の下士官(MP)たちに「ご苦労さん、ありがとう」と言ったらしい。
看視の下士官たちは大いに驚いた。
死刑囚とはいえ、かつては大日本帝国陸海軍のゼネラル(将軍)たちです。
そのようなゼネラルたちが、自分たちのような位の低い兵たちに、しかもこれから刑を執行しようとする敵国の兵たちに対して頭を下げてお礼を言うのか、と。
戦時中、彼らは「日本人は悪魔のごとき民族である」と教育されていたのですから尚更でしょう。
4名は、土肥原、松井、東條、武藤の順で整列し、両脇には看視と将校が付き添いつつ、静かに中庭を歩いて絞首台に向かったという。
死刑執行ののち、7名の遺体は厳重な警備のもとに横浜の久保山火葬場に移され、速やかに荼毘に付されました。
実はここから、久保山火葬場の飛田美善(ひだ びぜん)場長らと、GHQとの間で静かなる遺骨争奪戦が行われます。
それを述べると、あまりにも字数が多くなりますので、ここでは割愛しますが、要するに、例え遺骨の一部であっても、何としてでも遺族の元に届けたかった飛田場長らと、戦犯らの遺骨が日本軍国主義の神格化に利用されることを恐れたGHQとの間で攻防があったのです。
結果、遺骨の一部は、今も熱海の興亜観音に眠っています。
とはいえ、遺骨の大部分はGHQにより回収され、東京湾もしくは千葉県沖の海に飛行機から撒かれたと言われています。
言うまでもなく、東京裁判は国際法に基づかぬ戦勝国による私刑でした。
裁判中においても、日本側弁護団からの「この裁判の管轄権はどこにあるのか?」の質問に対し、ウェッブ裁判長は「やがて闡明する」としながら今なお闡明されていません。
そもそも不思議なのは、絞首刑とされた7名の中に海軍関係者が一人もいないことです。
真珠湾攻撃により米国に戦争を仕掛けたのは海軍です。
陸軍が戦車で真珠湾を攻撃したわけではありません。
このことについては、調べれば調べるほどに、日本人として実に胸糞悪い事実が明らかになっています。
すなわち、東京裁判のときから既にわが国には、米国様に媚びへつらう「敗戦利得者」が暗躍していたのでございます。