きのう、長崎の知人から「味まるみかん」を頂きました。
味まるみかんは、JAながさき西海のブランドみかんで、佐世保市の南部で生産されています。
糖度12度以上、酸度1%以下という厳しい基準をクリアしている誠に美味しい「みかん」です。
ちなみに、我が国では「美しい味」と書いて「美味しい(おいしい)」と読ませますが、これは完全なる当て字で常用漢字表には読みが見当たりません。
料理ができない私にはよくわかりませんが、味に深みをもたらすのが「塩」であるのに対し、味に旨味をもたらすのが「砂糖」であると聞いたことがあります。
なるほど、たしかに「美味しい」と言われる食べ物には、たいていの場合、甘みがあります。
シュメールの時代、すなわち太古の昔から「蜂蜜」が重宝されていましたので、いつの時代でも人間は甘いものを欲するものらしい。
ただ、甘いものはもともと富裕層しか食べられないシロモノであり、平民の世界にも砂糖などの甘いものが広がっていったのは後のことです。
例えば、砂糖の塊である「金平糖」が日本に伝来したのは戦国時代後期で、当時は公家や高級武士しか口にすることができなかった貴重な品でした。
ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスが1569年に京都二条城(現在の二条城とは異なる)で「織田信長に金平糖を献上した」という記録がのこっていますので、もしかすると織田信長が日本で初めて金平糖を食した日本人だったかもしれない。
この時代、スペインやポルトガルは日本で大量に産出される金銀が欲しかったし、キリスト教の布教もしたかった。
ついでに絹も欲しい。
ということで、南蛮の商船は戦国武将たちが喜びそうな品物をたくさん運んできたわけですが、その中の一つが「甘いもの」だったわけです。
とはいえ、前述のとおり金平糖のような高価なものは普通の人には買えません。
自然、「砂糖を作るには、どうすればいいのか…」となります。
そこで、サトウキビの話を聞きつけ、「それってどこで取れるの?」となりました。
サトウキビの原生林があったのは、ニューギニア島です。
ニューギニア島のサトウキビをボキッと折って(根から引っ張らなくてもいいらしい)船に積み込み、沖縄などの熱帯地域で栽培しはじめたら密林のようなサトウキビ畑ができたのでしょう。
以来、我が国においても、サトウキビをグツグツと煮て、いわゆる黒砂糖や茶色の砂糖をつくるようになりました。
ちなみに、幕末の薩摩藩が経済的に富裕な藩となれたのは、琉球のサトウキビを押さえていたことが大きい。
琉球のサトウキビでつくった砂糖を、堺あたりで高値で売りさばいていたらしい。
現代の貨幣価値に換算すると、100円のものを5,000円ぐらいで売っていたというから、そりゃぁボロ儲けですね。
さて、大航海時代を征したポルトガルですが、彼の国はゴア、マカオ、ギニア、アンゴラ、モザンビーク、スリランカ、そして南米ブラジルなど多くの国々と地域を植民地化していきました。
ご覧のとおり、熱帯地域ばかりです。
おそらくは、砂糖の原料となるサトウキビが熱帯気候に適した植物だったからでしょう。
サトウキビを栽培するにあたっては、ハイテクな農具などは不要であり全てが手作業です。
手で切って牛車で運び、グッと絞るだけの単純作業です。
なので、力の強い低賃金労働者が大量に必要になります。
しかしながら、自国内を見渡しても、そんな都合のいい人たちはいません。
国外を見渡してみたら、なるほどアフリカに大勢いたわけです。
スペインも同じことをやりました。
この二カ国が最初にやり、その後にヨーロッパの国々、今では「我が国は民主主義国家だぁ」と言っている国々がアフリカで奴隷狩りをやったのは周知のとおりです。
アメリカ大陸にアフリカ人奴隷がたくさん来たのも、中南米付近、すなわちメキシコ湾辺りが非常に熱く、雨量もあったのでサトウキビや綿花を育てるのに適した地域だったからです。
このように、砂糖は奴隷労働の苦難の上に生産されたものであり、それがヨーロッパ人たちの贅沢を満たしていたわけです。