ミッドウェーの敗北に学ぶ(後編)

ミッドウェーの敗北に学ぶ(後編)

真珠湾攻撃の責任をとらされ解任となったハズバンド・キャンメルに変わり、米国はチェスター・ミニッツを新たな太平洋艦隊司令長官に抜擢しました。

なんと27名の上級者を飛び越えての異例の人事でした。

とりわけミニッツ司令長官は、なによりも「情報」を重視しました。

日本海軍の暗号解読に力を入れ、おとり情報を流すなどして日本海軍の攻撃目標がミッドウェー基地であること、そしてその攻撃日が6月4日であることを特定することに成功しました。

ミッドウェー海戦の8日前(5月27日)のことです。

この8日間を使って米軍は猛スピードで準備を進めました。

まず、ミッドウェー基地へ爆撃機と戦闘機を増援、対空砲を配備し、島の防衛を大幅に強化しました。

そして南太平洋にいた主力空母3隻を急ぎハワイに呼び戻し戦いに備えました。

珊瑚海海戦で中破した空母ヨークタウンは、その修理に90日を要するとされていましたが、不眠不休の作業を命じてわずか3日の応急修理でミッドウェー海戦に間に合わせています。

米軍は常に臨機応変です。

日本海軍のミッドウェーまでの進撃ルートも概ね予測できていた米軍としては、後は手ぐすねをひいて待つのみとなりました。

奇襲するはずの日本海軍が逆に奇襲されることになるのです。

昭和17(1942)年6月4日午前4時30分(現地時間)、日本海軍の4隻の空母がミッドウェー近海に到達したころ、索敵(偵察)をはじめました。

索敵は通常、対象範囲を扇形に分け、時間をずらしそれぞれの担当空域を時間を水上偵察機で2回飛行させます。

しかしこの時の日本海軍の索敵は酷かった。

索敵は1回のみ。

扇形に分けた網(対象範囲)も実に粗いものでした。

しかも索敵にあたった1機は愚かにも雲の上を飛んで偵察しており、雲の下の状況を確認することなく「敵の艦隊はいない」と判断してしまいました。

ところが、まさにその索敵範囲の雲の下を米軍の空母群が航行し、日本軍の主力(空母4隻)にむけて忍び寄っていたわけです。

南雲司令長官をリーダーとする日本海軍は、米軍空母群が忍び寄っていることに気づかないまま予定の戦闘海域に入っていきました。

午前6時30分、日本海軍(108機の攻撃機)によるミッドウェー島への空襲が開始されました。

しかし、待ち受けていたのは米軍による想像以上の激しい反撃で、日本側は敵の滑走路を不能にすることができませんでした。

空襲開始から30分後の午前7時、南雲司令部に空襲部隊の指揮官から報告が入ります。

「第二次攻撃の要あり」

即ち、ミッドウェー基地への追加攻撃が必要だ、ということです。

ここで南雲司令部に判断が迫られます。

実はこのときの決断こそが、その後の日本国の命運を決定したと言っても過言ではありません。

空襲部隊の指揮官が「ミッドウェー基地への追加攻撃の必要あり」と報告してきたとき、日本海軍の主力4隻の空母は敵空母との戦いに備えて待機していました。

空母から発進する戦闘機には、対空母用の「魚雷」や「艦船用爆弾」が装備されていました。

しかし、ミッドウェー基地の第二次攻撃に向かわせるためには、対空母用の「魚雷」や「艦船用爆弾」から「陸上用爆弾」に兵装転換しなければなりません。

ここで南雲司令官は悩みます。

敵空母に備えるか? それともミッドウェー島の第二次攻撃(陸上攻撃)を優先させるか?

ここで南雲が下した決断は「第二次攻撃隊の兵装を陸上用爆弾とせよ」でした。

むろん、敵空母はいないであろう、という前提に立った決断です。

南雲による急な作戦変更により空母甲板上では陸上用爆弾への転換作業がはじまり、艦内はにわかに慌ただしくなりました。

爆弾の兵装転換作業に追われる空母部隊に危機が迫ります。

ミッドウェー基地から飛び立った攻撃隊をはじめ、敵20数機が次々と空母上空に到達しはじめたのです。

迎撃したのは、当時世界最強の零戦です。

魚雷を抱えた米軍機が低空で接近してきましたが、零戦の性能と優秀なパイロットたちの奮戦もあって、各艦から3機ずつ発進した零戦が敵20数機をすべて撃ち落とし、一発も敵の魚雷を空母に命中させていません。

ところが、零戦が敵を撃退し続けるなか、偵察機から思いも寄らない知らせが南雲司令部に届きます。

午前8時20分のことです。

「敵は母艦を伴う」

即ち、敵空母群を発見したと言うのです。

南雲司令部は、予想もしていないかった事態に驚愕します。

今度は空母との戦いの備える必要に迫られたのです。

選択肢は2つ。

① 転換した陸上用爆弾のまま戦闘機を直ちに出撃させる………陸上用爆弾には空母そのものを破壊する威力はありませんが、先手を打って敵空母の航空甲板を破壊し航空機の発着を不能にすることは十分に可能。

② 万全の体制で敵空母への攻撃にのぞむ………例え時間を要しても、もう一度魚雷に付け替えて敵空母に致命傷を追わせたい。

このとき、空母飛竜の司令官であった山口多聞少将は①の「再転換することなく、直ちに全機を出撃するべきです」と南雲に直接具申したらしい。

もしも南雲が山口少々の進言を聞き入れていたのなら、その後の戦局は大きく変わっていたことでしょう。

南雲が下した結論は、残念ながら②の「再び雷装に転換せよ」でした。

そうなると艦内は再び大混乱に陥ります。

取り外しつつあった魚雷や艦船用爆弾が置かれたまま慌ただしく作業が進められました。

要するに、空母甲板上は弾薬庫と化したのです。

このとき空母を守る零戦は低空で突っ込んでくる敵の攻撃機との応戦に追われ、上空には零戦が1機もおらずガラ空きの状態でした。

そこに敵空母から発艦した急降下爆撃機からの攻撃を受け、虎の子の航空母艦4隻を沈められてしまったのです。

それだけではありません。

300人以上もの優秀な零戦パイロットたちを一瞬にして失ってしまったのです。

偵察機から「敵空母発見」の報が入ったとき、山口多聞が言ったとおり兵装転換せず速やかに出撃させていれば損害は軽微だったはずです。

爆弾や爆弾を満載した飛行機が甲板に並んでいるところに急降下爆撃をくらったということは、火薬庫に爆弾を落とされたも同然です。

すべては南雲司令官の判断ミスです。

実は遡ることの2ヶ月前のセイロン沖海戦でも、日本海軍では同じことが発生していました。

「二次攻撃の要あり」との報を受けた後に索敵機からは「敵艦隊発見」の報告があって、やはり度重なる兵装転換が行われました。

そのため、各空母の飛行甲板は混乱の極み、爆弾や魚雷が散乱して危険な状況に陥りました。

残念ながら、このときの教訓はミッドウェーでは活かされませんでした。

南雲の失態はこれだけではありません。

真珠湾攻撃の際にも大きなミスを犯しています。

そのときもまた、山口多聞が進言した「第二次攻撃(石油タンクと海軍工廠への攻撃)」を行いませんでした。

もしあのとき第二次攻撃を行っていれば、米国海軍は約半年間にわたって太平洋で作戦展開することができなかったと言われています。

そもそも南雲は端っから真珠湾攻撃に乗り気でなかったから第二次攻撃を行わず兵を引き上げてしまったのです。

この報を訊いた山本五十六司令長官が「あぁ、南雲だったらやらないだろうな…」と嘆き呟いたという逸話が残っています。

歴史に「IF」はないが、IFがなければ洞察できないこともあります。

もしも、真珠湾攻撃のときから南雲ではなく山口多聞が司令官であったなら、あのような惨めな敗戦には至らなかったのではないでしょうか。

少なくとも真珠湾攻撃の際に第二次攻撃を行っていれば、そもそもミッドウェーで戦う必要すらなかったのですから。

ではなぜ、山本五十六は山口多聞を司令官にしなかったのでしょう?

それは山口多聞より南雲忠一のほうが海軍兵学校の卒業年次が一期先輩だったからです。

いわゆる官僚的年功人事です。

べつに年功でもいいですが、失敗したリーダーにはちゃんと責任をとらせるべきです。

振り返ってみますと、敵(米軍)の大将は失敗すると直ちに解任されています。

そしてチェスター・ニミッツように、27名の上位者を飛び越えて新任させる抜擢人事も行われています。

一方、我が日本軍においては、失敗つづきの司令官が年功人事で出世していったのです。

トップの責任を問わないのは我が国の悪い癖です。