きのう10月20日は、吉田茂の命日でした。
吉田茂といえば、その賛否は別としても、まちがいなく戦後・日本の立役者です。
彼は東京五輪が開催された昭和39年に「大勲位菊花大綬章」を受賞していますが、大勲位菊花大綬章とは、最高位である「大勲位菊花章頸飾」に次ぐ勲章で、天皇陛下や国家元首以外の生存者叙勲としては事実上最高位となる勲章です。
受賞から3年後の昭和42年(10月20日)、吉田茂は心筋梗塞を患って89歳でこの世を去り、逝去から11日後には日本武道館で国葬が営まれています。
その後、晴れて「大勲位菊花章頸飾」を受賞することとなりましたので、あの世でさぞかしお喜びになったことでしょう。
とはいえ、その喜びも束の間だったにちがいない。
翌年(昭和43年)の9月27日早朝、神奈川県大磯の吉田邸に泥棒が入り、吉田茂が息を引き取った寝室に飾られていた「大勲位菊花章頸飾」ほか、メガネや懐中時計など数点が盗まれてしまいました。
祭壇に立てかけられていた吉田茂の遺影が裏返しにされていたという。
当時の警察は「吉田邸に出入りをしていた者の犯行…」という見方を示していましたが、結局その後、犯人は捕まることなく、大勲位菊花章頸飾は未だに出てこない。
例えば江戸時代、将軍家から恩賜された「掛け軸」なり「刀」なりがもしも盗難に遭うなど紛失してしまったなら、その家の当主は切腹の上、お家もお取り潰しとなりましょう。
さすがに昭和の御代では、そのようなことはありませんでしたが。
とにもかくにも権力と名誉を求め続けた吉田茂ですが、戦前の昭和7年にも彼は授爵(爵位を得ること)を政府に願い出ています。
昭和7年の吉田茂は54歳で、イタリア特命全権大使を終えたころです。
吉田茂は権力者に取り入って権力と名誉を得るのを得意としながらも、残念ながらその時の彼の願いは聞き入れられることなく爵位は手に入りませんでした。
だがその後、マッカーサーに媚びて総理大臣になることはできました。
この男、東京裁判では喜んで検察側に外務省資料を提供するなどしてGHQに媚を売りまくった。
マッカーサー憲法(占領憲法)を我が国の憲法とするために外務大臣として奔走したのも吉田茂です。
昭和21年2月13日の午前10時、吉田茂は六本木にあった彼の自宅兼外務大臣公邸で、松本烝治(国務大臣)とともにマッカーサーの右腕であったコートニー・ホイットニー准将を出迎えました。
そして70分間の会談が行われるわけですが、ここでホイットニーからGHQ草案が日本政府に対して示されたのです。
GHQ草案を見せられた松本烝治の顔は一瞬にして青ざめました。
松本は自ら草案し持ってきた「松本草案」が一蹴されたので「自分の案とは全く異なり、幣原総理に見せた後でないと何とも言えない」と発言しました。
一方、吉田茂も神妙な面持ちで草案に目を通していましたが、それは演技でした。
なんと彼は事前にGHQから草案を渡されていたのです。
結局、ホイットニーは「この草案を受け入れないと陛下が訴追されることになりますよ」と脅してきたので、日本政府はこれを受け入れ合意せざるを得なかったわけですが、それでもその合意はあくまでも帝国憲法第76条第1項「法律規則命令又ハ何等ノ名称ヲ用ヰタルニ拘ラス此ノ憲法ニ矛盾セサル現行ノ法令ハ総テ遵由ノ効力ヲ有ス」の規定に基づく合意(条約)にすぎないものです。
私が「現行憲法(占領憲法)は憲法としては無効であり、講和条約の限度内で認められるもの」としている根拠はここにあります。
ゆえに、私たち日本国政府は、条約の失効と憲法の無効を宣言し、新たな憲法を制定(帝国憲法の改正)しなければならない。
今、総選挙が行われていますが、選挙戦を通じて真っ当な憲法議論がみられないのは誠に残念です。