捏造された川崎公害史観

捏造された川崎公害史観

臨時国会が10月1日に召集されることが決まったようです。

9月27日に自民党新総裁選挙が決着し、10月1日の衆参両院本会議で新首相が指名され新内閣が発足することになります。

新内閣発足後、補正予算を通さぬまま早期に衆院を解散する可能性が取り沙汰されていますが、川崎市など地方自治体は国の補正予算をもとに遂行する事業を抱えていますので、できれば速やかに通してもらいたい。

さて、その川崎市ですが…

現在、市議会では9月定例会が開会中です。

きのうは決算審査特別委員会の環境分科会が開催され、「議案145号 令和5年度川崎市一般会計歳入歳出決算認定について」が議題となり、私は6款2項1目「公害対策総務費」について質問しました。

質疑の内容は以下のとおりです。

川崎市は定期的に他都市の住民を対象にした「川崎の都市イメージ調査」を行なっています。

すると必ず、未だに川崎は「公害のまち」や「川や空気が汚い」などの負のイメージを持たれていることが判明します。

むろん、川崎は公害のまちではありませんし、川や空気もきれいです。

なのになぜ、そうしたイメージを持たれているのでしょうか。

その答えは明確です。

川崎には捏造された公害史観があるからです。

愚かにも、その捏造された公害史観を喧伝しているのが当の川崎市です。

このたび川崎市が発行した「市制100周年記念誌」の18ページにも、そのこと(インチキ公害史観)が記載され喧伝されています。

川崎の捏造公害史観とはこうです。

「かつて川崎は、工場等から排出される大気汚染により公害に苦しんだ。しかし、昭和46年に誕生した伊藤三郎市長が大気汚染防止条例(昭和47年)を制定し大気汚染物質の総量規制を設けたことから、大気はきれいになって見事に公害を克服した」とう史観です。

しかしながら、きのうの川崎市環境局の答弁でも明らかになったように、伊藤三郎市政が誕生した昭和46年の段階において、既に主要な大気汚染物質である硫黄酸化物(SOx)の大気濃度は他都市並みに改善しておりました。

上のグラフをご覧のとおり、川崎市の数値は横浜市と同じ。

しかも、お隣の東京都よりも、あるいは大阪市などよりもはるかに改善されていました。

よって、もしも「川崎は公害のまち」と言うのであれば、数値が同じ横浜市も、数値が川崎市よりも悪い東京都や大阪市も同じように「公害のまち」と呼ばれなければ辻褄が合いません。

にもかかわらず、川崎市だけが「公害のまち」のレッテルを政治的に貼られたのです。

もう一つ、下のグラフをご覧いただきたい。

これは、硫黄酸化物の一つである二酸化硫黄(SO2)の大気濃度の推移です。

昭和42(1967)年までは確かに川崎市は環境基準を大きく上まわっていましたが、その年(1967)に国が「公害基本法」を制定し、さらに国が昭和43(1968)年に「大気汚染防止法」を制定したことで汚染濃度は激的に改善し、伊藤三郎市長が誕生した時点で既に基準値を下回っています。

因みに、伊藤市政による総量規制は昭和47(1972)年からのことで、よく見るとそれ以降はむしろ改善度が鈍化しています。

すなわち、川崎市における大気改善は、国の法整備と、それに基づく市民や企業の取り組みが功を奏したのであって、伊藤市政の総量規制はあまり関係がないものと推察されます。

肝心なのは、伊藤三郎市政が誕生した時点において、既に川崎市の大気汚染濃度は他都市並み改善していたという事実です。

にもかかわらず、伊藤三郎氏は市長選挙で「青い空、白い雲」というキャッチコピーを使って、川崎市を「公害のまち」に仕立て上げたのです。

しかも、自分で仕立て上げ、まるで自分で解決したかのようなインチキ公害史観が捏造されたのです。

何度でも言います。

伊藤市長が誕生した時点で、既に川崎市の空は他都市並みに青かったし、川崎市の雲は他都市並みに白かったのです。

ましてや、伊藤市政という革新市政が「公害を克服した」などということは、捏造以外の何ものでもありません。

このことが、京浜工業地帯で唯一、川崎市だけが「公害のまち」と言われてしまう所以です。

まずは川崎市自らが、捏造された公害史観を克服すべきです。