中華人民共和国の北京市南西部を流れる永定河に、盧溝橋という石造りのアーチ橋が架けられています。
かつて、この盧溝橋を訪れたマルコ・ポーロが『東方見聞録』の中で「世界中どこを探しても匹敵するものがないほどの見事さ」と記した橋であることから、西洋ではマルコポーロ・ブリッジなどとも呼ばれています。
その盧溝橋の近くに「通州」という街があります。
1937(昭和12)年7月29日、この街に住む日本人居留民約260名が冀東保安隊といわれるシナ人たちに惨殺されました。
いわゆる「通州事件」です。
以下は、東京裁判で受理された「通州事件」の現場目撃証言の抜き書きです。
因みに、抜き書きとはいえ、証言内容は実に凄惨な言葉の羅列となっておりますので、読まれる方は自己責任でお願いします。
「陰部は刃物でえぐられたらしく血痕が散乱してゐた。男は目玉をくりぬかれ上半身は蜂の巣のやうようだった。子供は手の指を揃えて切断されてゐた。主人らしき人の死体が路上に放置してあったが、胸腹の骨が露出し、内臓が散乱してゐた」
その余りの残忍さに日本の世論は怒り沸騰したらしいのですが、なぜかこの事件は我が国の歴史書や教科書には載っていません。
なお、公平性を期すために付記しておきますが、この事件の直前に通州のシナ軍に対し関東軍による誤爆がありました。
通州事件はその報復だ、という説がありますが、関東軍は迅速に誤爆の否を認め冀東政府長官に謝罪するとともに、犠牲者の遺族に対しても深い弔意を示したことで、外交上は既に解決していた問題です。
にもかかわらず、通州事件直前の7月25日には電線修理に派遣されていた日本の電信隊がシナ軍に攻撃されていますし、翌26日にも広安門を通過中の天津駐屯日本軍がシナ兵により不法な乱射を受けています。
そもそも通州事件に関わらず、既に旅順口事件や済南事件などでもシナ伝統の虐殺事件が発生しています。
眼球を抉り出したり、腹を割いて内臓を引き出したり、陰部を切り取るなど、それはそれは猟奇的な殺戮です。
通州事件ののち、約半月が過ぎた8月13日の早朝、今度はシナの便衣兵(平服を着た兵)が日本の警備兵に発砲してきたのですが、この時、日本軍は応射しませんでした。
ところが、夕方になるとシナ軍が砲撃を開始してきたため、日本軍はシナ側の拠点を焼き討ちするに至りました。
翌14日になると、ついにシナ爆撃機が上海の日本の陸戦隊や市街地、さらに共同租界・フランス租界を爆撃してきたので、やむを得ず日本側もシナの空軍基地を爆撃します。
さらに翌15日、シナ側(蒋介石)は全国騒動員令を発し、対する日本側もまた日本人居留民保護の観点から上海派遣軍の派兵を決定します。
ただし、それと同時に日本政府は、不拡大方針、領土的野心のないこと、南京政府の挑発的言動の停止要求等の「政府声明」を発表しています。
かくして日支全面戦争となったのです。
これが、世に言う「第二次上海事変」であり、シナ事変(戦後の教科書では日中戦争)のはじまりです。
戦後、私たちは「シナ事変は日本の侵略戦争だった」と教えられてきましたが、以上のように、大陸への派兵は日本人居留民の保護を目的としたものであり、その行動はことごとく受動的なものです。
先日、中華人民共和国の深圳において、日本人学校に通う男子児童が登校中に刃物を持った男に襲われ死亡しました。
明らかに日本人が標的にされた事件です。
通州事件から87年もの歳月が経っていますが、彼の国の本質は今も昔も変わりはないものと思うべきです。