義命派 vs 時運派

義命派 vs 時運派

本日は8月14日。

79年前の今日、昭和天皇は大東亜戦争終戦のご詔勅を渙発(詔勅を発布)されました。

このご詔勅がラジオで国民に告げられたのが、翌日の8月15日です。

日本政府は8月9日に陛下の御聖断を得てポツダム宣言を受け入れていますが、8月12日に連合国から送られてきた通達に「subject to」の記載があったことから、これを陸軍は「(天皇陛下が連合国に)隷属する」と訳し、外務省は「(天皇陛下が連合国の)管理下に置かれる」と訳して、改めて政府内では最終的にポツダム宣言を受け入れるか否かの議論となりました。

むろん陸軍は「隷属するのであれば、国体は護持できない」として戦争の継続(本土決戦)を主張。

外務省は「管理下に置かれる程度なのだから大丈夫だ」として終戦を主張します。

ときの総理大臣は鈴木貫太郎。

ここで閣内不一致によって内閣が瓦解しては終戦が遠のく。

鈴木総理は「終戦が遠のけばソ連が切り取り次第(奪いたい放題)で国土を侵食し、やがて終戦交渉にも介入してくる。相手が米国だけであるうちに早く決着をつけねばならない」と考えていました。

しかしながら何時間かけても議論は結論に至らない。

そこで鈴木総理は、8月14日に再び陛下を会議に招いて(御前会議を開いて)、御聖断を仰ぐことになります。

8月9日にも御聖断を仰ぎポツダム宣言を受諾していましたので、再び御聖断を仰ぐことになったわけです。

因みに、明治帝国憲法下では、現在と同じように陛下に政治的決断を仰いではならないことになっていました。

政治責任は、あくまでも内閣において最終であり、立憲君主である陛下は内閣が決めたことをただ裁可するだけです。

鈴木総理は御前会議で昭和天皇に対し「我ら臣下が不甲斐ないばかりに、再び陛下に御聖断を仰ぐこととなり誠に申し訳ございません」とお詫びしています。

ここでも陛下は、「朕の思いは先の聖断と何ら変わらない。これ以上、国民を苦しめるわけにいかない…」という趣旨のお言葉を述べられ、外務省意見(終戦)に賛同されました。

このとき陛下は、お涙を流されてのご発言だったと伝わっています。

これを受け鈴木内閣は急ぎ閣議を開き「終戦のご詔勅」の作成にかかります。

ご詔勅の原文を起草したのは、安岡正篤(やすおか まさひろ)氏だったとのこと。

「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」の一文は誰もが知るところですが、私が最も注目するのは「時運の赴くところ…」の一文です。

安岡氏が起草した原文では、この部分は「義命の存するところ…」となっていました。

ところがこれを、あるお〇〇さんな閣僚が「義命なんて難しい言葉は国民には解りづらいから、時運の赴くところ、でいいじゃないか」と言って修正されてしまったのです。

しかしながら、「義命(止めねばならぬ大義)が在るからこそ、戦争を終結させるのだ」と、「時運の赴くところ(負けそうだから)、戦争を終結させるのだ」では大きなちがいがあります。

「時運の赴くところ…」とは要するに、行き当たりばったり、ということです。

安岡氏は、戦後の日本の政治が「行き当たりばったりの政治」にならぬよう、戦争終結の理由を「義命の存するところ」としたのだと思います。

その証拠に、今の政治はまさに「行き当たりばったりの時運の赴くところの政治」になっています。

国民の命、そして国が育んできた伝統を守らねばならぬ政治家には、常に「義命の存する」決断と行動が求められるのだと確信します。