昨日(8月9日)、長崎市では、79年前の原爆投下による犠牲者を追悼する『平和祈念式典』が例年通り行われました。
ところが今年は、米欧6カ国と欧州連合(EU)の大使が欠席しています。
欧米6カ国とEUの大使らが出席を見合わせたのは「体調がすぐれなかった…」からではありません。
むろん、政治的理由があってのことです。
その理由は唯一つ。
それは、長崎市がイスラエルを招待しなかったことに対する暗黙の抗議です。
米国大使も「外交問題に発展させたくなかった」と欠席の理由を述べています。
長崎市の鈴木市長は「(イスラエルを招待しなかったのは)政治的な理由ではない」と説明していますが、少なくとも米欧6カ国とEUは現に政治的な配慮から出席を見合わせたのですから、長崎市の判断は政治的外交問題として受け止められたわけです。
上川外務大臣は「各国外交団からの出席者については、政府としてコメントする立場にはない」と言っていますが、一介の自治体などに外交問題に発展した場合の責任なんてとれないのですから、やはり招待すべき国については政府が指導をすべきではないでしょうか。
あるいは、式典は政府主催にすべきです。
そもそも「誰(どの国)を招待するか…」という時点で既に政治であり外交なのですから。
長崎市がイスラエルを招待しなかった理由についてはおおよその検討がつきます。
パレスチナ自治区ガザ地区で戦闘を続けるイスラエルは、長崎市にとっては「平和の敵」なのでしょう。
たしかに紛争や戦争は嘆かわしいことではありますが、現実の国際社会は複雑細微な事情や地域的にも特殊な歴史的背景によって動いており一筋縄ではいかず、「戦争反対」と叫べば平和がもたらされるわけではありません。
占領憲法を神格化する日本の左翼たちが言うような「念仏平和主義」は残念ながら国際社会では通用しない。
また、彼ら彼女らは「核兵器を廃絶すれば世界が平和になる…」とも言いますが、仮に世界中にある全ての核兵器を物理的に廃絶できたとしても、残念ながら核兵器をつくる技術までは廃絶できない。
ゆえに、国際社会で軍事的優位に立とうとする指導者がやがて現れるのは必定です。
というか、核がなければ現秩序体制を維持することができない国が現実に存在しているわけですから、この世から核兵器を廃絶すること事態がファンタジーの世界です。
もちろん、本音と建前はあっていい。
しかしながら、あまりにも本音と建前がかけ離れ過ぎると様々な矛盾が噴出し、かえって問題を複雑化し収拾を困難にして事態を悪化させることもしばしばです。
例えば「憲法9条を世界に普及しよう」などという人たちもいますが、そこまでくるとある種の「傲慢さ」さえ感じざるを得ません。
戦後、たしかに我が国は平和でした。
しかしそれは、米国による占領統治の延長上に成立した「独立なき特殊な平和体制」に過ぎませんでした。
そのような歴史的にも地域的にも限定された条件によって成立した特殊な事例を一般化して国際標準にすることなど不可能です。
何度でも言いますが、決して「憲法9条」があったから平和だったのではありません。
憲法9条の存在は要因でなく結果です。
傲慢な平和主義を世界に押し付けようとすると、今回の長崎市のようになります。