無駄な予算とは?

無駄な予算とは?

一昨日の7月29日、臨時閣議が開かれ「令和7年度予算の概算要求に当たっての基本的な方針について」が閣議了解されました。

中身を読みますと、冒頭には…

「令和7年度予算は、6月21日に閣議決定された骨太の方針に基づき、経済・財政の一体改革を推進する。ただし、重要な政策の選択肢をせばめることがあってはならない。歳出全般にわたり、施策の優先順位を洗い直し、無駄を徹底して排除しつつ、予算の中身を大胆に重点化する」

…とあります。

要するに「緊縮財政によって歳出を切り詰めるけど、徹底して無駄を排除して予算にメリハリをつける」と言っています。

因みに「重要な選択肢をせばめることはあってならない」の文言は、自民党の積極財政派の努力で盛り込まれた言葉です。

しかしながら、その後に「徹底して無駄を排除する」という文言が付け加えられてしまいました。

であるならば、無駄とは何ぞや、を明確に定義しなければならないはずです。

「無駄…」という言葉の対象は極めて主観的なもので、人によって大きく異なります。

いつも思うのですが、実際には「無駄」と言うよりも、「理不尽な予算執行」と言ったほうがより正確です。

例えば、所得を稼ぐ術もなく生活に困窮した日本国民の「生活保護」申請がなかなか受理されないにもかかわらず、生活保護目当てで訪日した外国籍住民には僅か数日で申請が受理されるなどは、まさに理不尽な予算執行の典型例です。

生活保護の申請が受理されず、「おにぎりが食べたい…」と言ってお亡くなりになられた日本国民もおられました。

この場合、無駄ではなく予算を振り向ける先、即ち予算執行の仕方が間違っているわけですから、予算を振り向ける先を変更すればいいだけであって削減する必要はありません。

ゆえに、はじめから「削減ありき」で予算を組んでしまうと、必要なところに予算がまわらない弊害が必ずでることになります。

2012年、中央高速の笹子トンネルで発生した天井板落下事故は、それまでの手間と時間をかけた点検方法を予算削減の観点から「目視による点検」に変更したことが事故の大きな原因となったとされています。

すなわち、小泉内閣による緊縮財政により道路公団が民営化され、民営(株式会社)となった道路公団(NEXCO)が無駄の観点から点検予算を削減したわけです。

「無駄」という抽象的な言葉を予算削減の根拠にしてしまうと、こうなるのです。

その後、民主党政権が行った、あの悪名高き「事業仕分け」もまた同様の話です。

過ちは改むるに如かず。