第一次世界大戦と日英同盟

第一次世界大戦と日英同盟

本日は7月28日。

1914(大正3)年、即ち110年前の今日、オーストリアがセルビアに宣戦布告しました。

この宣戦布告は、そのちょうど一ヶ月前にボスニアの首都サラエボで、オーストリアの皇太子夫妻がセルビアの一青年に暗殺されたことに端を発しています。

これを受け、8月1日にはドイツがロシアに宣戦、続いてフランスとイギリスも対ドイツ参戦しました。

世に言う、第一次世界大戦の勃発です。

第一次世界大戦の主戦場は欧州であったため、日本とはあまり関係のないように思われがちですが、この大戦もまたその後の我が国の命運に大きく影響しています。

戦後教育によって私たちは戦前の日本軍(帝国陸海軍)は侵略的で好戦的な存在として印象付けられてきました。

たしかに一部軍人官僚のなかにはその種の人たちがいたかもしれませんが、戦後の歴史観とは裏腹に、意外にも日本は他国に後ろ指をさされぬよう涙ぐましいほどの努力をしています。

第一次世界大戦への対応がまさにそうでした。

ところが皮肉にも、その慎重さが仇となっています。

その仇とは何かというと、それまで我が国にとって極めて有益であった「日英同盟」に暗雲が垂れ込めることになってしまったのです。

イギリスがドイツ戦に参戦したのは8月4日ですが、苦戦を強いられていたためイギリスは同盟国・日本に大戦への参戦をしきりに求めてきました。

しかし、日英同盟の適応範囲はインド(インド洋)までとされていたため、日本政府はあくまでも慎重でした。

だが、そうしている間にも、イギリスの商船が次々とドイツ軍に撃沈されているというニュースが後を絶ちません。

当然、英国政府からは執拗に参戦要請がきます。

そこで漸く日本政府は参戦を決意するのですが、海軍は地中海に、陸軍も青島(チンタオ)などのドイツ領を占領するに留まり、イギリスが求めていた陸軍の欧州への戦地派遣は最後まで行いませんでした。

一方、これを「良い英米関係を構築する好機」とみたアメリカは日本とは正反対の対応をします。

同盟関係でもないにもかかわらず、軍艦141隻を派遣し、なおかつ陸軍を欧州の戦地へ送ったのです。

結果、アメリカ陸軍は大量の戦死者を出しながら、イギリスをはじめとした連合軍を勝利に導いたのです。

これにより、イギリスほか連合軍の協力国への感謝度に大きな差が生じてしまったのは言うまでもありません。

そこへ、日本が行った「対華21カ条要求」が追い打ちをかけます。

対華21カ条要求とは、大戦中に占領した旧ドイツ領(チンタオ)から日本軍は撤退せよ、と求めた支那政府に対し、日本政府がその利益の代償を求めたものです。

一般的な歴史観では、欧米が第一次世界大戦にかかりきりになっていたことに乗じて、日本が支那政府に対して権益拡大要求を押し付けたものとされていますが、国内外の批判も考慮し、最終的にはこれまでの条約の遵守を求めるものを主として16条を要求したにすぎません。(残りの5カ条はご協力のお願い程度)

とはいえ、たしかに大戦のさなかに戦後処理を求めたことは悪い印象を与えたかもしれません。

それよりももっと深刻だった問題は、大戦後、アメリカに大きな借りができてしまったイギリスは、アメリカの意向に従い「日英同盟」を破棄せざるを得なかったことです。

現在の中共が、目の上のタンコブである「日米安全保障条約」を破棄させたがっているように、当時の米国は対日戦略上どうしても「日英同盟」を破棄させたかったのです。

1921(大正10)年、ついに日英同盟は破棄され、その後の米国は着々とオレンジ計画(対日、軍事外交プラン)をすすめ、日本を窮地に追い込んでいくことになります。

日英同盟の破棄は、我が国にとって明らかに大きな痛手でした。

第一次世界大戦での日米の対応の差が、日英同盟解消の火種になってしまったこともまた歴史の教訓ではなかろうか。