最高裁は去る7月11日、旧統一教会が信者に作成させた返金・賠償を求めない念書を無効であると判断して、東京高裁に破棄差戻しました。
教団の献金をめぐる最高裁の判断は初めてのことです。
旧統一教会に高額献金をした女性(既に他界)の娘さんが教団側に賠償を求めた訴訟の上告審判決で、最高裁は信者だった母親が「教団に賠償を一切求めない」と書いた念書を無効と判断したのです。
このことの意義は実に大きい。
宗教を憲法によって聖なるものと容認するのであれば、信者が寄進すること自体は「信教の自由」で認められているはずです。
しかし今回の最高裁の判断は、宗教を「信教の自由」という聖域が引きずり降ろし、世俗的基準で規制することを認めたことになります。
だとすれば、寄進することは世俗的な贈与として、宗教法人に税金を支払わせることが認められなければならない。
すなわち、先般、私が無所属議員の有志たちとともに川崎市議会に上程した『公平な税制の観点から宗教法人への優遇税制の見直しを求める意見書案』は、最高裁判決によってその正当性が根拠づけられたことになります。
この最高裁判決が旧・統一教会の解散命令にどのような影響があるのかという点については、専門家の間で様々に意見が分かれるところでしょうが、おそらくは解散命令を認める方向に作用するのではないか。
宗教法人法の定める解散命令については第81条に規定があり、旧・統一教会に適用されると考えられる条項は、第1号(法令に違反して、著しく公共の福祉を害すると明らかに認められる行為をしたこと)と第2号(第二条に規定する宗教団体の目的を著しく逸脱した行為をしたこと又は一年以上にわたってその目的のための行為をしないこと)です。
このケースでは、特に第1号か。
さて、私は一人の日本国民として「祭祀」の世界と「宗教」の世界とを明確に分けています。
「宗教」は世俗化し勢力化し政治化しますが、八百万(やおよろず)の神々を祀り、先祖を祀り、英霊を祀るという祭祀の行為は世俗の権力や戦争とは無関係です。
歴史をみても明らかなように、宗教は戦争を起こしますが祭祀は戦争を起こしません。
もともと歴史的にみても、我が日本民族は紛れもなく「祭祀の民」です。
ところが、洋の東西を問わず、必ず人間社会には宗教を求める勢力が顕れます。
祭祀にはカネはかかりませんが、宗教にはカネがかかる。
だから宗教は必ず信者にお布施などの寄付を求め、政治(時の権力者たち)には優遇税制を求めるわけです。
とはいえ、いよいよ聖域から引きずり降ろされ世俗団体と判断された宗教法人なのですから、課税においても世俗団体一般として公平税制が適用されなければならない。