先週の土日(6月29〜30日)の2日間、JR東日本は仙台から平泉の間において臨時快速「毛越寺あやめまつり号」を運行したとのことです。
この臨時快速は、岩手県平泉町の毛越寺で開催中の「あやめまつり」への輸送を目的に運行されたらしい。
貴重な臨時快速ですから、おそらく多くの鉄道ファンが写真を撮りに行かれたことでしょう。
ところで、我が国において初めて鉄道が開通した年をご存知でしょうか。
1872(明治5)年のことです。
日本初となった鉄道は、横浜から新橋の間に路線が敷かれました。
明治のご一新の直後のことですので、開港して多くの外国人が往来する横浜に駅が設けられたのは理解できますが、なぜ人口の多い上野や浅草ではなく、新橋に駅が造られたのでしょうか?
鉄道ファンなら、きっと直ぐに答えられるのかもしれませんが、おそらく多くの日本人はご存知ないかもしれません。
しかしながら、このことは我が国の政治と歴史の観点からも極めて重要な問題です。
日本の初の鉄道を造ったのは、むろん日本ではなくイギリスが造りました。
正確に言うと、イギリスのご指導のもとに造られました。
イギリスの若い男性(たしか当時22~23歳くらい)、その名もエドモント・モレルという優秀な鉄道家が設計しデザインし、工事を監督したのでございます。
因みに、よく「日本の鉄道の線路幅はイギリスと同じだ…」などと言われますが、違います。
線路幅はイギリスよりも狭い。
新橋から横浜の間に敷かれたレール幅は、イギリスの植民地にある列車のレール幅よりもさらに狭いものでした。
さて、当時としては人の少ない新橋に駅をつくった理由ですが、結論から言うと、横浜に上陸したイギリス軍(海兵隊)が迅速に上京し皇居(首都)を制圧できるようにするためです。
そもそも鉄道は陸軍を輸送するために開発されたもので、やがてそれが民生転用されました。
NHK大河ドラマで歴史を勉強されている方々には誠に申し上げにくいことですが、残念ながら明治維新はイギリスのアジア戦略の一貫として成し遂げられました。
すなわち、イギリス様のご支援がなければ、薩長による倒幕は困難だったのです。
ゆえに、明治政府はイギリスに頭が上がりませんでした。
しかし、その日本がいつイギリスに牙をむき出すかわからない。
そのときのためにイギリスは、新橋ー横浜間の鉄道を整備しておいたわけです。
現在においても、東京の上空がことごとく横田(米軍)の管制空域として設定されていますが、これもまた日本のコントロールが効かなくなったとき、沖縄の米軍基地にいる海兵隊が迅速に東京を制圧できるようにするためです。
それと同様です。
つまり、皇居の下腹部に槍を突きつけて、「日本のモンキーたちよ、暴れるでない!」と。
それで新橋に駅を設置したわけですが、もしも日本国民のための鉄道なら、終着駅は新橋ではなく上野や浅草になっていたはずです。
明らかに政治的かつ戦略的なレールの敷き方だったのです。
なお、後日談ですが、エドモント・モレルは若く優秀な鉄道家だったのですが、彼は結核を患っており血を吐きながら働き過ぎたせいか、鉄道が開通した翌日にお亡くなりになっています。
一緒に訪日した奥さんが一生懸命に介抱したのですが、旦那さんの死が余程にショックだったのでしょう。
その直後、奥さんもまた亡き夫の後を追うようにしてこの世を去っています。