ミッドウェー海戦から学ぶべきこと

ミッドウェー海戦から学ぶべきこと

昭和17年4月18日の帝都空襲を受け、帝国海軍は太平洋のど真ん中に位置するミッドウェー島を攻略する作戦を立てました。

その作戦は、6月5日に実行に移されます。

ミッドウェー島攻略とはいうものの、その最大の戦略目標は真珠湾で討ち漏らした米空母部隊の殲滅にありました。

「この島に攻撃を仕掛ければ、それに誘い出されて必ず敵空母部隊がやってくる…」というのが山本五十六(連合艦隊司令長官)の狙いだったのでしょう。

6月7日、帝国海軍の先方として南雲機動部隊が、ミッドウェー島近海に到着します。

機動部隊というのは、現在で言うところの空母打撃群のことです。

空母に複数の戦闘機を乗せ、圧倒的な航空戦力をもって敵艦を撃沈するという部隊ですが、この戦術を発明したのは山本五十六であり、世界初の試みです。

その後、米国が真似して今に至っています。

南雲機動部隊はミッドウェー島近海に到着後すぐに攻撃隊を発艦させ、島の飛行場を空襲させます。

しかし、滑走路を完全に破壊することができず「再攻撃の要あり…」という報告がなされました。

報告を受けた南雲は島への再攻撃を行うため、敵機動部隊の出現に備えて雷装(魚雷を装着)して待機していた艦上攻撃隊に爆弾への兵装転換を命令します。(魚雷では滑走路を破壊できないため)

さぁ、ここからは南雲の失態のはじまりです。

この日、帝国海軍は早朝から盛んに索敵機を飛ばしていたのですが、実に杜撰な索敵だったことがわかっています。

一向に「敵艦見ゆ」の報告が入らなかったため、南雲は「敵は現れぬ…」と思い込み、油断しはじめます。

そのとき「敵艦発見!」の報が入りました。

焦った南雲は、敵空母を攻撃するため再び「雷装」への兵装転換を命令します。

ここが歴史の転換点です。

南雲の命令に、爆弾への兵装転換を終えたばかりの空母甲板は混乱します。

爆弾や魚雷が空母甲板や格納庫に散乱する危険な状況です。

このとき、空母「飛龍」と空母「蒼龍」を指揮する第2航空艦隊司令官の山口多聞は、「今さら兵装転換なんてしている余裕はない。魚雷でなくてもいい。そのまま爆弾兵装にて出撃し敵空母を撃沈せよ」として、艦上攻撃隊を発艦させました。

山口多聞は南雲にもそのことを伝え、「今すぐ全機出撃すべきである」と意見具申をしています。

ところが、融通も機転も利かぬ南雲は兵装転換にこだわりました。

「敵空母を沈めるには、やはり魚雷でなければ…」と。

そこへ、敵空母から発艦した急降下爆撃隊が襲いかかります。

兵装転換中だった空母甲板は魚雷と爆弾で埋め尽くされていましたわけですが、そこへ敵からの急降下爆撃です。

爆撃をくらった空母はたちまち大炎上。

帝国海軍の虎の子の空母4隻が、あっという間に沈められてしまったのです。

ここで、大東亜戦争の勝敗は決定した、と言っても過言ではありません。

日本軍は虎の子の空母4隻のみならず、数百人もの優秀なパイロットや整備士たちとともに戦闘機をも失ってしまったのです。

索敵機から「敵艦発見!」の報告が入ったとき、山口多聞の言ったとおりにしていれば損害は軽微だったはずです。

現に、山口多聞が出撃させた攻撃隊は、米空母「ヨークタウン」を沈めて一矢報いています。

偏差値秀才、マニュアルバカの南雲の判断ミスは免れない。

そもそも南雲忠一という司令長官は水雷の出身で空軍については素人でした。

それに対し山口多聞は航空隊の経験が豊富な人でした。

もしも南雲でなく、山口多聞が司令長官であったのなら、戦局の展開はまったく違ったものになっていたことでしょう。

ではなぜ山口多聞ではなく南雲が司令長官になったのかというと、海軍大学の卒業年度が山口多聞より南雲のほうが一期先輩だったからです。

たったそれだけ。

結局、真珠湾で討ち漏らした米空母部隊を殲滅しに行ったら、逆に自分たちが殲滅させられてしまったわけです。

さらに興ざめすることを申し上げますが、帝国陸海軍の全ての暗号は、昭和15年9月30日の段階で既に米軍側に完全(99.9%)に解読されていたのです。

よって、米軍は手ぐすねをひいてミッドウェーで待っていたわけです。

以上はミッドウェー海戦の一端ですが、これだけでも様々な教訓に満ちています。