課税システムを最初に整備した文明の1つは古代エジプトだったと言われています。
ナルメルが下エジプトと上エジプトを統一し、エジプト第1王朝を創始した直後、すなわち紀元前3000年頃のことだったと推定されます。
一方、エジプトのピラミッドは当初、奴隷たちの強制労働によって建設されたものと考えられていましたが、実はそうではないらしい。
労働の対価はきちんと支払われていたようです。
その財源は、なんとアヘン。
エジプトのナイル川沿岸には、広大なケシ畑があったという。
ちなみに、豊臣秀吉が大阪城を築城したときにも、築城に参加したお百姓衆に対し、一人当たり一升分のおコメが支給されています。
秀吉の資金源(外貨獲得)は南蛮貿易であったろうか。
1590年に小田原の北条を滅ぼし天下統一を成し遂げた際の秀吉の石高は約200万石で、当時の徳川家康の石高とさほど変わらない。
それでも金銀の保有量は家康を圧倒していたのは貿易を抑えていたからです。
その後、家康が江戸に幕府を開くようになって、全国の金山銀山を幕府が独占しました。
とくに佐渡から挙がる金の産出量は凄まじかった。
やがて佐渡の金山が掘り尽くされ、産出量が落ち込むようになってから、江戸幕府の力は衰えだしたと言われています。
元禄バブルが弾けて、江戸の街がデフレ経済に陥り深刻な不況になったとき、幕府に天才官僚が現れました。
勘定奉行(現在の財務大臣)の荻原重秀です。
彼は「たとえ瓦礫であっても江戸幕府の判子が押してあれば、立派な貨幣だ。小判が金銀である必要はない」と言いました。
現在で言うところの「表券主義」を、この時代に既に完璧に理解していたのでございます。
一方、新井白石のように「いや、おカネは金銀であるべきだ」と金属主義を主張する幕僚たちもおりました。
結局、荻原重秀は新井白石との通貨論争に負けて失脚してしまいます。
以降、江戸幕府は保有する金銀の量以上の通貨を発行することができず、経済は停滞し続けます。
こうしたデフレ経済への積み重なった庶民の不満が、のちの倒幕運動が支持された所以でもありました。
いつの時代でも、正しい貨幣観を普及すること、あるいは世論に理解されることは難しい。