本日は4月6日です。
79年前(昭和20年)の今日、帝国海軍は菊水第一号作戦を開始しました。
菊水作戦とは、いわゆる「沖縄特攻」と呼ばれるものです。
ほとんど成功の見込みのない作戦であるにもかかわらず、沖縄方面の敵艦隊に一矢でも報いようと、瀬戸内海で待機していた戦艦大和が艦隊特攻の旗艦としていよいよ出撃したのです。
沖縄に襲来した米軍に対する日本軍の対抗手段が、もはや「特攻」しかなかったことが実に悲しく寂しい。
機動部隊を失った状況で、敵が制空権を握る海域に艦隊を派遣するのはあまりにも危険なことです。
危険と言うよりも無謀です。
無謀を承知で、大和は瀬戸内海の三田尻沖で錨をあげ、豊後水道をめざして出航しました。
この艦隊の出撃に呼応するかたちで、九州各地にあった帝国陸海軍の飛行場から、この日だけでも300機以上の特攻機が出撃しています。
帰りの燃料を積まずに爆弾のみ抱えた特攻機が米軍の駆逐艦2隻を撃沈し、また戦艦ノースカロライナや空母サンハーシントなどにも損害を与えたことから、一時的に米軍を混乱させることに成功しています。
この間隙を突くように、大和以下の艦隊は豊後水道を通過していきました。
しかしながら、豊後水道に潜んでいた米潜水艦に折よく発見されてしまいました。
制海権を奪われているうえに、日本軍の暗号はすでに99.9%解読されていますので宜なるかなです。
翌日の4月7日、大和は鹿児島南端の佐多岬沖で艦隊の進路を西方面にある佐世保軍港にとる欺瞞行動にでましたが、そのような子供騙しは米軍に通用しませんでした。
すかさず米軍は機動部隊から合計386機の攻撃隊(第一次攻撃)を発艦させ、大和に襲いかかります。
大和の三番砲塔付近に2発の大砲弾が命中し、続いて魚雷1発が命中。
むろん、厚い装甲で覆われた大和ですので、この程度の命中弾ではびくともしない。
なんと、何事もなかったように最大戦速で航行を続けたという。
とはいえ、他の艦はそうはいきませんでした。
軽巡洋艦1隻、駆逐艦2隻が沈没し、駆逐艦1隻が航行不能に陥りました。
その後、大和はさらに二波、三波の攻撃に晒されます。
米軍は、シブヤン海での戦艦武蔵との戦闘を教訓にして、大和への攻撃を左舷に集中させました。
それでも、大和の「注排水システム」はすごかった。
第五波までの攻撃によって、すでに相当数の魚雷と爆撃をうけましたが、8000トン以上もの注水を行って傾斜を保っていたという。
ついに、第六波の攻撃をうけ、魚雷3本がたてつづけに命中。
さすがの大和もこれには耐えきれませんでした。
左舷の傾斜が35度にまで至って、午後2時23分、ついに総員退去の命令が下されました。
結局、山本五十六はミッドウェー海戦でも、ガダルカナル島の戦いでも、大和に活躍の場を与えず、ただただ温存し続けました。
やっと出番がきたと思ったら、無謀な特攻作戦の旗艦としての出撃となったのです。
総員退去ののち、やがて大和は横転し、後部火薬庫に引火して大爆発を起こし爆沈しました。
その姿は、連合艦隊の滅亡を象徴する眺めだったのかもしれない。