今なお情報戦・諜報戦に疎い日本

今なお情報戦・諜報戦に疎い日本

1941年10月、リヒャルト・ゾルゲというドイツ人と、当時、内閣総理大臣であった近衛文麿のブレーンだった尾崎秀実(おざきほつみ)を中心とするグループがスパイ容疑で逮捕される事件がありました。

これぞ、世を震撼させたゾルゲ事件です。

彼らのスパイ活動がその後の日本史や世界史の流れに与えた影響は極めて大きいものでした。

ゾルゲは表向きは同盟国ドイツの大手新聞「フランクフルターツァイトゥング」の特派員として活動しながら、熱心なナチス党員を装って駐日ドイツ大使館のアドバイザー的な役割も務めていました。

ところが彼は、実際にはソ連の赤軍情報部のスパイであり、尾崎秀実らをメンバーとするスパイ組織を率いていました。

尾崎秀実が朝日新聞の記者であったことはよく知られているところで、月刊誌などへの寄稿も多く、当時の言論界でも影響を持ちうる存在でした。

当時の近衛文麿は国民的人気のあった政治家で、そんな近衛のブレーン組織である昭和研究会にも尾崎秀実は参加していました。

近衛内閣が成立した際には、尾崎秀実は朝日新聞を退社して内閣嘱託となって政権中枢に入り込みます。

1941年10月18日、第三次近衛内閣が総辞職して、代わって東條内閣が成立したのは、ゾルゲ事件で尾崎が逮捕されてから三日後のことです。

尾崎らが長期化を画策していた支那事変は、すでに開戦から四年目に入って泥沼の様相を呈していました。

ご承知のとおり、このころの日本といえば、ABCD包囲網によってかなり追い詰められていました。

例えば、日本軍は援蒋ルートを遮断して支那事変を早期に集結させるため、1940年9月に北部仏印に進駐。

さらに翌年には東南アジアの資源を確保のため、南部仏印に進駐しています。

また、1940年9月27日に日独伊三国同盟を締結し、同年10月12日には大政翼賛会を結成して既成政党を解散するなど議会制民主主義は瀕死の状態となりました。

それでも東條内閣は、昭和天皇のご意向を受け、対米英開戦を回避するべく必死の対米交渉を開始します。

ゾルゲ事件が発覚してゾルゲと尾崎秀実が逮捕されたのは、ちょうどそのころです。

逮捕の直前、尾崎の論文が月刊誌に掲載されています。

そのタイトルは、「大戦を最後まで戦い抜くために」でした。

内容は「日本は英米資本主義国を敵とする世界戦争を戦うべきなのだ」「第二次世界大戦が世界最終戦として英米資本主義打倒を達成することこそ日本の政治家の任務だ」というもの。

こうして尾崎秀実は対ソ警戒の北進論を排して、英米との対立につながる南進論に世論を誘導したのです。

もしもこのとき日本が南進論を採用せず、北進してシベリアに軍を進めていたならば、東西から挟み撃ちにされたソ連が一挙に崩壊する可能性は十分に高かったと思われます。

相手国の情報を盗むだけがスパイ活動ではありません。

尾崎秀実はジャーナリストとして、また支那問題専門家としての言論でこのような世論を誘導し、なおかつ政権中枢にも入り込んで国策を歪め、ありとあらゆる手段で日本に不利にソ連に有利にする工作を行ったわけです。

そういえば、現代においても尾崎秀実のような役割を担っている人がいますね。

ゾルゲ事件を例にせずとも、大日本帝国は諜報戦、情報戦においてやられっぱなしでしたが、そのことは今でもさほど変わっていません。

それはなぜか…

私たち日本国民が、あの敗戦を真面目に反省していないからです。