民主主義に必要な「前提の共有」

民主主義に必要な「前提の共有」

大統領選にむけ何かと喧しくなっている米国ですか、彼の国では今、民主党支持者と共和党支持者が互いに「相手は反米勢力である…」と言い合って対立状態に陥っているらしい。

今や、このままだと第二次南北戦争に突入するのでは、と懸念されるほどのようです。

ご承知のとおり、人間よりも銃の数のほうが多い米国です。

局地的に武装蜂起する人たちが出てこないともかぎらない。

昨日のブログでも申し上げましたとおり、自由主義や民主主義なるものが安定化するためには、最低限として必要なものがあります。

それは何か。

自由主義、民主主義なのですから、そこでは多様な議論が展開され、様々な意見や主張が衝突して軋轢や対立が生じます。

それでも最終的に社会としてまとまるのは、「そうは言っても、みんな同じ国民じゃないか」という共通意識、あるいは前提の共有があるからです。

そうした共通意識や前提の共有は、前近代からきます。

すなわち、同じ歴史を共有してきました、同じ文化を共有してきました、同じ価値観を共有してきました、だから例え意見が違っても最終的には同胞であり一蓮托生じゃないか、となるわけです。

民主主義が国民共同体単位、地域共同体単位で成立するのは、そのためです。

さて、きのう(令和6年3月18日)は、『令和6年 第1回 川崎市議会定例会』の最終日でした。

私は無所属の有志議員とともに、本市の『多文化共生社会推進指針』に示された在住外国人の地方参政権の付与に関する記載内容を修正することを強く求める決議案を議会に上程し、提案者を代表して議場で提案説明もさせて頂きました。

それをインターネット中継でご覧になられた市民の方から、お手紙をFAXで頂戴しました。

当該ブログへの掲載許可も頂きましたので、以下、その一部をご紹介します。

「私はEC成立前の移民が流入し始めた40年前のヨーロッパで3年間暮らした経験をもちます。その経験から多文化共生という言葉が、実は差別意識の裏返しであることを痛感しています。そもそも差別意識など無い人は、多文化共生ということを強調することはありません。多文化共生があたりまえの国では、このことをあまり意識はしないものです。私が暮らしている当時は、ナチズムへの反動から多文化共生を唱える人が大勢おりましたが、多文化共生を唱える人間ほど実は劣等感の塊で、隠れた差別主義者、全体主義者であることを痛感しています。(後略)」

移民を急激に受け入れたヨーロッパでは様々な社会問題が生じていますが、長い歴史の中で蓄積されてきた「前提の共有」がないのでは無理もないことでしょう。

といって、多文化共生のような抽象的な理想論を掲げるだけでまとまるものとも思えない。