全体主義化する川崎市の多文化共生施策

全体主義化する川崎市の多文化共生施策

昨日のブログの続きになりますが、令和6年3月11日の川崎市議会・文教委員会において、中村茂・市民文化局長は私の質問に対して「外国人地方参政権は市として望ましいもの」「多文化共生の行政は議会を含めた市民の総意として進めてきたもの」と答弁しました。

すなわち、中村局長は「市民の総意で進めてきた多文化共生施策にとって、外国人地方参政権は望ましいものだ」と言い放ったわけです。

なお、福田市長もまた「外国人地方参政権は望ましいもの」と考えていることが明らかになりましたので、実に衝撃的な事件であったといっていい。

川崎市の局長職にある幹部職員から、私を支持してくださった川崎市民を全く無視する発言が平然と公の場で発せられただけでなく、その発想が実は全体主義に直結する発想であるという点において、そら恐ろしいものを感じざるを得ず、川崎市の将来について強い危機感を抱きました。

仮に、川崎市(福田市長・中村局長)が望ましいとする「外国人地方参政権」が多数の意思だったとして(日本国民たる川崎市民の半数以上は反対していると思われますが…)、単なる多数意思を「総意」とするのは極めて危険な発想です。

昨日のブログでも述べたとおり、単なる多数意思を「総意」とする間違った理解は「全体主義」に通じます。

ルソーはその著書『社会契約論』において、「総意」というものを「全体意思」と「一般意思」とに概念分けをしており、前者を個々人の私欲の集積、後者を私欲の集積ではなく全体の正義や道理、いわば「天地の公道」への志向において表現せられる意思、としました。

であるならば、多数派の主張であれ、少数派の主張であれ、重要な問題であるほど、「一般意思」としての「総意」に基づかなければならないことは明白です。

残念ながら、中村氏が言うところの「市民の総意」は、明らかにルソーが言うところの「全体意思による総意」であって「一般意思による総意」ではありません。

これも繰り返しになりますが、ヒトラーもスターリンも毛沢東も金日成も悉く、人民の意思(全体意思)を名として強権を振るったのです。

この種の人たちは、永い歴史や経験のなかで積み上げてきたものを軽視し、自分の頭(理性)の産物だけが正しいと思い込んでいますから、反対派は必ず間違っていると決めつけます。

そして上手くいかなければ「原因は全て反対派にある…」だから「これを抹殺すれば完全な社会ができる…」という考えに至ります。

正しいのだから万人が賛成するはずである、いや賛成しなければならない、そう確信するわけです。

これが全体主義への道です。

少なくとも、中村局長による「総意」発言は、私を支持してくださった川崎市民の意思を否定し、かつ無視したものです。