インフラの重要性を理解していた織田信長

インフラの重要性を理解していた織田信長

私が最も尊敬する歴史人物は、織田信長です。

信長さんについて学校の歴史授業で最初に学ぶのが、かの有名な「桶狭間の戦い」です。

今川義元が率いる大軍(一説には織田軍の10倍)に対し、織田家臣団が奨める籠城戦を退け、いちかばちかの奇襲戦に打って出ることで首尾よく義元の首を奪い今川軍を敗走させた、といった具合でしょうか。

しかしながら、いちかばちかの奇襲戦だったかどうかは、史実として怪しい。

信長にとっては「いちかばちか…」ではなかったろうし、「奇襲戦…」でもなかったろうと私は思っています。

むしろ、信長の方が今川軍を周到におびき寄せている節もありますし、いずれにしても、やがては今川軍が大軍で織田領内に侵攻してくることは信長にとって想定内だったと思います。

想定内だったからこそ、信長は桶狭間付近の地理的状況を調べ尽くしていますし、かねてから現地では鷹狩り(軍事演習)を盛んに行っていました。

少なくとも、信長にとって桶狭間の戦いは、勝算をもったうえでの白昼堂々の迎撃戦だったと思います。

ただ、信長が少ない兵力で大軍に挑んだのは、この桶狭間の戦いを含めても生涯で3回ぐらいしかない(しかも、やむを得ず)ことから、信長としては桶狭間の戦いは想定内の危機ではあったものの「勝利は奇跡的だった」と考えていたのかもしれない。

さて、信長といえば、多くの方が「戦いの名士」という印象をお持ちになっておられると思いますが、数多の武将のなかでも信長は、ことのほかインフラ整備に力を入れた武将です。

その証拠に、今川義元の領地(駿河、遠江、三河)と、信長が領有する尾張の領土面積は3倍以上ありましたが、そこから上がる石高はさほどに差がありませんでした。

後に豊臣秀吉が行った太閤検地のデータによって明らかになったことですが、秀吉時代の駿河、遠江、三河の合計石高は59万5千石であったのに対し、尾張の石高は57万石だったという。

これほどに経済力で拮抗していたのですから、信長に勝算があったのも頷けます。

ではなぜ、尾張一国で57万石の石高を実現することができたのでしょうか。

それは何と言っても、尾張では用水事業、開拓事業、区画事業などの農業基盤整備が果敢に行われてきたからです。

むろん、それらは信長の時代からはじまったわけでなく、織田家が代々、インフラ整備の重要性を理解し、たゆまぬインフラ投資を行ってきたのです。

ただし、信長の場合、道路整備が半端でない。

信長は、街道、脇道、在所道というように道路にランク付けをしたのですが、これは現在で言うところの「国道」「県道」「市町村道」と同じです。

「街道」の幅員は6.5メートル、「脇道」の幅員は4.4メートル、「在所道」の幅員は2メートルでした。

こうした道路が、信長の版図に張り巡らされていったのです。

すべての道はローマに通ず、と同じように。

おそらく、6.5メートル道路を整備したのは、日本では信長が最初ではないでしょうか。

ちなみに、甲斐(山梨県)の武田信玄もまた「棒道」と呼ばれる軍用道路を整備していますし、信玄堤という治水インフラは有名です。

このように、名だたる武将は、しっかりとインフラ整備をしているのでございます。

特筆すべきは、信長が行ったインフラ整備は、ただ単に軍事力を強化しただけではなく、同時に国民経済(領民経済⁉)をも豊かにしたことです。

道路が整備されれば、当然のことながら人やモノや情報の往来が増え経済取引が盛んになるわけですが、加えて信長は「撰銭令」というMMT(現代貨幣理論)を先取りした貨幣政策も行っています。

他の大名領に比べ、織田領内において貨幣経済が発達したのはそのためだったかと思われます。

国民を豊かにするのが政治の役割であることは、今も昔も変わらない。

現代の為政者たちも、信長の爪の垢を煎じて飲んだほうがいい。