私たちが公教育で教えられてきた近代史は、いわゆる薩長史観です。
薩長史観とは、薩摩、長州、土佐、肥前らの「尊王の志士」たちが立ち上がり、旧態依然とした徳川幕府を武力で倒し、薩長を中心とした西南雄藩が力を合わせて明治新政府を発足させ、維新改革により西洋文明を存分に吸収して我が国は近代化に成功した、という歴史観です。
戦後は、そこにGHQ史観やら司馬遼太郎史観などが加わって「明治は偉大だったが、昭和(敗戦までの昭和)は駄目だった」史観になりました。
「明治(維新)は偉大だった…」
これこそがまさに薩長史観の極みです。
はたして、明治維新は本当に偉大だったのでしょうか。
例えば、戊辰戦争時に薩長が行った会津での凄惨な殺戮行為は本当に必要だったのでしょうか?
あのような殺戮行為は、まさに薩長維新の腐った部分です。
そもそも徳川時代の260余年、日本ほど平和な国はありませんでした。
ご承知のとおり、江戸時代は外国と戦争したことなど一度もありません。
ところが、維新が断行され、天皇陛下が江戸城にお移りになられて皇居とされて以来、江戸時代とは打って変わって日本は戦争ありきの国になりました。
私に言わせれば、明治維新などは、イギリスの手先となった薩長が行った「政権転覆運動」です。
薩長が目指したのは近代化などはなく、イギリス化です。
もちろん、日清、日露の戦いに勝たなければ、日本はロシアの植民地になっていたかもしれず、一刻も早く近代国家の仲間入りを果たさねばならなかったことは理解しますが、その後の大陸政策や外交政策はいかにもお粗末で、やたらと好戦的な軍部に振り回される国に成り果てました。
大東亜戦争時には、長州がつくった陸軍と、薩摩がつくった海軍が常に仲違いをしており、統合的な戦争遂行を実現することはついに叶いませんでした。
ちなみに陸軍では、会津出身の兵隊は常に冷遇されるなど、真っ先に前線に送られたとも仄聞しています。
さて、本日は、2月26日です。
昭和11(1936)年の今日、陸軍皇道派の青年将校らによってクーデターが決行されました。
軍部を中心にした社会主義国家の樹立を目指す彼らは、手始めに内大臣の斎藤実、大蔵大臣の高橋是清、教育総監の渡辺錠太郎などを殺害しました。
侍従長の鈴木貫太郎はなんとか命をとりとめ、総理大臣の岡田啓介もかろうじて難を逃れました。
とはいえ、陸軍省も統帥部(参謀本部)も占拠され、一時は東京湾に待機していた海軍との内戦に突入する寸前までいきました。
しかしながら、昭和天皇の断固たるご英断のおかげでクーデターの軍隊は「反乱軍」と認定され、その後速やかに事態を集結させることができました。
クーデター部隊は鎮圧されたものの、この事件により皇道派の失態が明らかとなり、皮肉にも今度は陸軍統制派が陸軍内で主導権を握るようになりました。
統制派もまた、軍部を中心とした社会主義国家を樹立すべき、という点では皇道派と何ら変わりません。
加えて、二二六事件後、軍部大臣現役武官制が復活してまいます。
以降、陸軍が「うちは大臣を出せません」と駄々をこねれば、一瞬にして内閣が吹っ飛ぶという政治体制となり、陸軍の意思が国の意思になっていきました。
対米戦争は、平和を求めた陛下の意思に反し、陸軍(統帥部)が強引に仕掛けたことが今や明らかとなっています。
その意味でも、二二六事件ほど罪深い事件はありませんでした。
二二六事件を惹き起した青年将校たちが掲げていたスローガンは、「昭和維新」です。
「維新」を叫ぶ者たちには気をつけろ!