「火事と喧嘩は江戸の花」と言いますが、江戸という都市は、そのほとんどが大名屋敷と寺社地が占めているため、町人たちが住んでいた用地はその20%にも達しませんでした。
江戸人口の約半分は町人だったと考えられていますので、町人用地の人口密度はやたらと高かったわけです。
それほどに人家が密集しているところで、明かりを灯すにも、風呂を炊くにも、食事を作るにも直火を使用するわけですから、それはそれは火災発生件数が多いのも頷けます。
幕府が開かれた当初は消防組織はなく、例えば江戸城内や武家屋敷で火災が発生した場合、幕府の大番組や鉄砲組などが臨時的に火事場に出勤したものの、町家での火災には関与しませんでした。
江戸の街に本格的な消化・防火制度の発達を促したのは、やはり何といっても1657(明暦3)年の「明暦の大火」がきっかけでした。
江戸の消防は、武家方による大名火消、定火消、所々火消、方角火消のほか、町方による町火消に大別されますが、明暦の大火以降の武家方の消防は、主として定火消や旗本が担うようになりました。
ちなみに、幕府直属の消防隊である「定火消」が設置されたのは明暦の大火の翌年で、さらにその翌年の正月には、上野東照宮の面前で4代将軍・徳川家綱をはじめ、老中の稲葉正則など幕府高官が参加するなかで「定火消」の顔見世儀式が行われました。
これが、現在でも行われている「出初式」の起源と言われています。
ちなみついでに申し上げますと、1874(明治7)年に東京警視庁が設置され、府下の消防事務はここで行うこととなり、初代・警視総監(当時は大警視)である川路利良が盛大に出初式を挙行し、そして1876(明治9)年には、明治天皇のご臨席をたまわり天覧出初式が行われました。
以降、地域ぐるみの防火防災の祭典として全国各地で出初式が盛大に行われるようになり、今では正月の風物詩として多くの人々に親しまれるようになったわけです。
さて、時代は進み、電化製品に囲まれて生活する私たちは直火で明かりを灯したり、風呂やご飯を炊くことが少なくなったわけですが、皮肉にも火災発生原因の一つは「電気関係」となっています。
私の住む川崎市多摩区では、昨年の1年間で53件の火災が発生していますが、そのうち電気関係による火災が4割を占めています。
とりわけ昨今では、リチウムイオン電池による火災が多発しているようです。
リチウムイオン電池はくり返し充電して使用できる便利さがある反面、充電中に突然出火したり、ズボンのポケットにスマホを入れた際などに過度な圧力がかかってショートし出火したり、一般ゴミと一緒に出されたリチウムイオン電池が、ゴミ収集車の中で押しつぶされ出火したりしています。
火事の撲滅は難しいらしい。
きのう午後、東京都文京区にある田中角栄元総理大臣のご自宅だった建物が火事により全焼してしまいました。
ご承知のとおり、田中角栄先生のご自宅は「目白御殿」とも呼ばれ、昭和政治の一つの大きな舞台でもありました。
出火原因については目下調査中のようですが、角栄先生にあこがれて政治の世界に足を踏み入れた私としては誠に残念です。
いつか建物の内部が公開される日が来たら、ぜひ拝見したいと思っていましたので。
もしかして、キッシンジャーの怨念か!?