260余年もの長期政権となった徳川幕府は、最後の将軍・徳川慶喜が1987年に大政奉還したことによって終止符を打ちました。
大政は朝廷に返上されたものの、どうしても武力で幕府を倒さねばならないと考えた薩長は、陰に陽に戦争の火種を仕掛け、それが功を奏して京都の鳥羽伏見において幕府軍と薩長軍が軍事衝突し、ついに戊辰戦争の戦端が開かれました。
やがて、東征軍は幕府の本拠地である江戸を目指して進軍を開始。
その後、江戸城は西郷と勝海舟との話し合いにより無血開城(オープン・シティ)となりました。
このとき、新政府を切り盛りするための浄財(おカネ)を必要としていた薩長軍が、江戸城内の御金蔵の在りかをくまなく捜索したのですが、一両たりとも御金蔵を発見することができませんでした。
そのため、「勘定奉行(幕府の大蔵大臣)だった小栗忠順が御金蔵を持ち出してどこかに隠したにちがいない…」という話になりました。
これが、いわゆる「徳川埋蔵金」伝説のはじまりです。
徳川埋蔵金は金塊あるいは貨幣とされ、現在に至ってもなお時折、個人やマスメディア等によって発掘作業が行われているようです。
果たして、徳川埋蔵金は存在するのか否か?
私の見立てでは、存在しない。
その根拠は、次の二点です。
まず第一の根拠ですが、勘定奉行をしていた小栗忠順が、残り少ない幕府御用金を使って「横須賀乗船所」を建設したのはご承知のとおりです。
小栗は、日本の国を列強(英米仏独伊)に侵略されない国にするためには、我が国も列強と同様に海軍を持つ必要があり、そのためには自前で船を建造したり、修理したりすることができるようにしなければならないと考えました。
そして、建設中の横須賀造船所を視察した際、ある人に小栗忠順は次のように尋ねられました。
「どうせ完成したって、その時に徳川幕府がどうなっているのかわからない。なのにどうして、ここまでおカネをかけて造船所を建設する必要があるのか?」と。
その質問に小栗忠順は次のように答えます。
「例え幕府が滅んでも日本国は滅びない。この造船所が完成すれば、幕府は新政府にとって土蔵付き売り家になる」
小栗忠順は幕府のエリート官僚ながらも、幕府の命運よりも日本国の命運を優先する国士でした。
そんな小栗忠順が、新政府を困らせるために御金蔵をどこかに隠すことなどするわけがない。
もしも莫大な御金蔵とやらが本当に存在していたのであれば、小栗忠順は「それもまた売り家の土蔵の一つだ」と考えていたにちがいありません。
おそらくは、そもそも最初から御金蔵なんて存在していなかったと私は思っています。
なぜなら、江戸末期の幕府の金蔵(かねぐら)は既に底をついていて、年がら年中「貨幣改鋳」を繰り返し、それこそ勘定奉行であった小栗忠順は何度か兌換紙幣(実際には不換紙幣だったと思われます)を発行していたからです。
そんな状況でしたので、江戸城が無血開城されたとき、城内に莫大な金銀があったとは思えません。
理由の第二は、もしも徳川埋蔵金なるものが存在し、その在りかを小栗忠順が知っていたのなら、どうして薩長軍は小栗忠順をみつけたとき、ろくな取り調べもせずに問答無用に小栗を斬首したのか、です。
ふつうは埋蔵金の在りかを聞き出してから斬首するであろうに。
薩長軍はそれをしませんでした。
この二つの理由から、私は徳川埋蔵金が存在するとは思えません。