真の多文化共生

真の多文化共生

現在、川崎市議会では12月定例会が開会中です。

あさっての水曜日からは代表質問がはじまります。

また、今定例会においても、各会派からいくつかの意見書案が提案されそうです。

意見書案とは、地方自治法(第99条)に基づくもので、各地方議会は、その地方自治体の公益に関する事件について、国会または関係行政庁に対して「意見書」を提出することができます。

例えば「国に対し消費税廃止を求める意見書」とか、「財務省に対し積極財政を求める意見書」とかみたいに。(因みに、そうしたまともな意見書はこれまで提出されたことはありませんが…)

国会や関係行政庁に対して提出する意見書は、むろん地方議会での議決を経て、賛成多数もしくは全会一致で可決されたものに限られます。

意見書と言っても、それを受け取った国会や関係行政庁には、意見書の内容を履行しなければならない法的拘束力はありません。

あくまでも「意見として承っておきます…」程度のものです。

なので地方議会の意見書は、いわば提案者たちにとって議会という公的な場で自己主張できる一つの手段にすぎず、いわば議会最終日の恒例行事となっています。

とはいえ、意見書案を提案し合うことで、各会派の主義主張が良い意味でも悪い意味でも明らかにされますので、やらないよりはやったほうがいい。

さて、今定例会では共産党(日本共産党川崎市議団)さんから提案予定の意見書案のなかに、「ガザ地区の即時停戦と人道支援を求める…」という内容の意見書案があります。

一見、良識的な意見書案に見えますが、それを正当化するための理屈付けが実に気にくわない。

例えば、意見書案の最後に「川崎市は多文化共生社会の実現に取り組んでいるから…」とあります。

多文化共生とは、「国籍や民族などの異なる人々が、互いの文化的ちがいを認め合い、対等な関係を築こうとしながら、地域社会の構成員として共に生きていくこと」(総務省定義)が建前となっています。

しかしながら今日では地方行政の現場においてこの解釈が曲解されており、多文化共生が、例えば「外国人地方参政権」を推進するための方便などに利用されています。

つまり実際には「互いの違い…」を認め合っていないのです。

もともと多文化共生という考え方には、日本国民の国民としての固有の権利を「外国人にも同等に認めるべきだ…」という思想背景があります。

むろんそれは、日本国憲法(占領憲法)でさえ認めている「国民主権の原則」に反するものです。

よく考えてほしい。

外国人市民に日本国民と同等の権利を与えるということは、日本国民が日本国民で無くなることを意味するのです。

川崎市や日本共産党には、そのことがどうしても理解できないらしい。

お隣の中国共産党だって、中国に住む日本国民に対し、共産党員や中国人民と同等の権利を与えることなどしないだろうに。

私は、国境を不要とする「グローバリズム」には全くもって与せず、ナショナルな国民や国境を前提としたうえで外国との良好な関係を構築していく「インターナショナル」な世界を理想としています。

それこそが真の多文化共生ではないでしょうか。

中東情勢をみますと、イスラエルとハマスは一時的な戦闘休止に入り、ハマスによる人質の解放が当初の予定を超えて続いているようですが、だからといって今後とも長期的な戦闘休止や停戦に結びつく可能性は極めて薄いでしょう。

やがては激しい戦闘が再開され、さらに多くの犠牲者を出し、人道危機がいっそう深刻になることは避けられない。


それほどに、宗教の違い、民族の違い、国民の違い、歴史の違いは大きいのです。

このことは、日本共産党や川崎市が言う「グローバリズムな多文化共生」が、いかに非現実的なものであるかを物語っています。

よって、我が国としては「インターナショナルな多文化共生主義」に基づき、軍事、経済などのハードパワー、そして文化や伝統などのソフトパワーの両面を具体的に駆使して、国際社会の一員として世界秩序の形成に努めるほかない。