今日は11月26日です。
日米交渉が難航していた昭和16(1941)年の今日、我が国にとって運命的となる「ハル・ノート」が米国政府から日本政府に突きつけられました。
それまでの交渉過程を全く無視するような、極めて強行な外交文書でした。
その中身は…
①シナ大陸やフランス領インドシナからの即時無条件撤退
②日独伊三国同盟を一方的に破棄すること
③重慶にある国民政府以外のシナ政府の否認
…を日本に求めるものでした。
①は、我が国が明治以降に正当な手続きを得て獲得した全ての権益を無条件で放棄し「江戸時代の日本に戻れ…」という要求です。
②は、ドイツやイタリアとも一方的に縁をきって、米英の要求に従え。
③については、少し詳細な説明が必要となります。
当時のシナ大陸にはまともな統一(中央)政府が存在しておらず、複数の軍閥が割拠してそれぞれに政府を主張するというほぼ内乱状態でした。
その中でも日本は親日的な汪兆銘政府を支持していました。
ハル・ノートが言うところの「重慶にある国民政府」というのは、蒋介石政府のことです。
蒋介石政府は対日徹底抗戦を目指して重慶に遷都していました。
ご承知のとおり蒋介石は、日本軍に都市が制圧されるたびに遷都して逃げ回り、日本軍との和平交渉に応じようとしませんでした。
因みに、日本軍は侵略のためにシナ大陸の奥深くまで進軍したのではなく、日本軍との和平交渉を意図的に放棄し、逃げては日本人居留民や日本軍に攻撃を仕掛け、攻撃を仕掛けては逃げていく、そんな蒋介石軍を鎮圧しなければならなかったがゆえに進軍したのです。
しかも、その蒋介石軍を裏で軍事面・経済面で支援していたのは米英です。
それがシナ事変です。
一方、汪兆銘は、蒋介石が放棄した南京において新たな南京政府を樹立しており、日本はこの汪兆銘政権とは既に講話を成立させていたのです。
要するに③の条件は、汪兆銘政権を否定し、裏で米英の庇護を受けている反日的な蒋介石政権だけを認めよ、ということです。
そもそも、当時の日本が大陸に持っていた権益は、日清戦争、日露戦争を経て多くの日本国民の犠牲を払った上で正当に獲得したものです。
それらを全て無条件で放棄して「江戸時代に戻れ…」と言われても、そのような条件を飲めるはずがない。
したがって当時の日本にしてみれば、「ハル・ノート」を実質的な「宣戦布告」、すなわち最後通牒と受け取ってもやむを得なかったと思います。
東京裁判の判事のひとりであったパル判事も「こんなものを突きつけられたら、ルクセンブルクやモナコでも立ち上がるであろう」という米国の歴史家の言葉を東京裁判で引用しています。