おカネを「物々交換に必要な商品」と考える、誤った貨幣観を広めたのは、アダム・スミスの『国富論』だと言われています。
『国富論』のなかでアダム・スミスは、次のように述べています。
「貨幣がすべての文明国で普遍的な商業用具となったのはこのようにしてであり、この用具の媒介によってあらゆる種類の品物は売買され、相互に交換されているのである」
「このようにして…」とは、要するに物々交換の発展形として、すなわち交換時に利便性が高い商品としておカネが誕生したことを指しています。
とにもかくにもアダム・スミスは一貫して「おカネは用具だ!」と言っています。
たしかに我々は、千円札や一万円札などの紙幣、あるいは100円玉や500円玉などの硬貨など、紙幣や硬貨といった用具(交換に必要なモノ)を活用して、日常の買い物を成立させています。
それゆえに今を生きる私たちは、「もともとは物々交換だったのが、利便性を追求していくうちに交換用商品が紙幣や硬貨に進化し、モノやサービスを購入できるようになったのだ…」と考えがちです。
しかしながら、過去の歴史において、社会のモノやサービスの交換の主たる手段が物々交換だった文明は事実として確認されていません。
つまり「物々交換から貨幣が生まれた…」という事実は、歴史的にも未だ確認されていないのでございます。
例えば、江戸時代の松前藩が、アイヌが生産する鮭(さけ)や鰊(にしん)や昆布などの海産物と、本州で取れた米を交換していたように、異なる民族、異なる共同体同士での物々交換の事例がわずかに確認されているだけです
一方、特定の共同体の内部において、物々交換を商品購入の主たる手段として成立していた事例は一切確認されていません。
おカネが存在しない場合であっても「贈り物」や「分配」によって各種のモノが提供されていただけであり、それは決して物部交換ではありません。
そもそも「おカネは交換用商品だ…」と仮定してしまったら、私たちが平素から使っている銀行預金という通貨決済の説明がつきません。
預金通貨は単なるデジタルデータであって、物理的に存在するモノ(交換用商品)ではありません。
にもかかわらず、私たちはネット通販での口座決済のように「銀行預金」と「モノやサービス」とを交換することができています。
映画の『マトリックス』じゃあるまいし、商品をデジタルデータ化して使用することなどできません。
結論から言えば、おカネとは要するに「負債の額を表券する媒体」にすぎない。
負債の額を表券する媒体であるからこそ、デジタルデータ化できるわけです。
この理解は、極めて重要です。
これを理解できないと、財務省や川崎市の財政当局のように「おカネは蓄積するべきモノ(行政財産)」という誤った思考に陥り、国民の生活や命よりもおカネのほうが大事であると言わんばかりの悪政が蔓延ることになります。
因みに、今朝の日本経済新聞に次のような記事が掲載されています。
『国の基金、5割が「期限なし」 国費無駄遣いのおそれ
度重なる経済対策で設置期限がはっきりしない国の基金が増えている。新型コロナウイルス禍以降に経済対策で設けた基金のうち、5割で設置期限の定めがなかった。10年以上の長期の基金も2割に上る。一定の規律や検証の仕組みを設けなければ、国費の無駄遣いや財政資金の死蔵につながる恐れがある。(後略)』
緊縮脳の政府は、基金に計上して、なるべく支出額を増やさない戦術を採っています。
一方、それを日本経済新聞が「無駄遣いや死蔵のおそれ…」と批判しています。
これって、批判されている政府も、批判している新聞社も、双方に貨幣観を間違えている典型です。