1972年、国連の専門機関であるユネスコ総会において「世界遺産条約(世界の文化遺産および自然遺産の保護に関する条約)」が採択されました。
世界遺産条約の目的は、顕著で普遍的な価値を有する遺跡や自然地域などを人類全体のための世界の遺産として保護、保存し、国際的な協力や援助の体制を確立するというものです。
以後、当該条約に基づいて遺産リストに登録された自然や文化財のことを「世界遺産」と言います。
2023年10月現在、世界遺産は文化遺産933件、自然遺産227件、複合遺産39件を含む1,199件あります。
1,199件のうち我が国からは、文化遺産20件、自然遺産5件、計25件の世界遺産が登録されています。
その一つに、群馬県の「富岡製糸場」が文化遺産として登録されています。
登録されたのは、平成26年のことでした。
幕末から昭和のはじめにかけて生糸(きいと)は我が国の最大の輸出品であり、明治末には世界最大の生糸輸出国となることができたのは、確かに富岡製糸場のお陰です。
また、生糸の輸出を主軸とした我が国の急速な経済発展の要因として、国による産業育成への積極的な関与があったことも世界的に有名な話です。
とはいえ、富岡製糸場が「アジアにおける産業近代化の先駆けであり、西欧の産業革命が最初に我が国におよんだことを示す貴重な文化遺産(産業遺産)である」というのは、世界遺産に相応しいかどうかは別として少し違和感があります。
なぜなら、日本産業革命発祥の地は、何と言っても幕末の偉人・小栗上野介忠順(江戸幕府の勘定奉行)が創設した「横須賀造船所」にほかならないからです。
横須賀造船所は、ただ単に「船」を「造る」ところではありません。
ここでは、船の動力源である蒸気機関のほか、スクリュー、シャフト、歯車、ネジ、大砲、砲弾、ライフル銃、鍋、釜、スプーン、ナイフ、バケツなどの製鉄品や、船体、船室、滑車、階段などの木工品、ほか帆布やロープなどをも幅広く造り、要するに船を造る総合工場だったのです。
造ったのは、モノだけではありません。
モノづくりためには、人づくりも必要となります。
造船所内には学校など教育機関も設置され、優秀な技師や職工を育てました。
また、今でこそ私たちには馴染み深いものとなりましたが、定時労働、残業労働、日曜休日制などの勤務体系、あるいは健康管理や年功給、技能給、月給制、出勤簿などの労務管理、そしてメートル法や近代式簿記などが横須賀造船所からはじまったのです。
後に富岡製糸場が近代工場として機能できたのは、小栗さんのお蔭によって横須賀造船所が総合工場としてのノウハウを既に構築していたからです。
そして、近代工学は造船工学(船体工学と機関工学)、飛行機工学、宇宙工学の順番で発展していきました。
現在においても、例えばトンネルを掘削するときに使われるシールドマシンは造船技術によって製造されたものですし、宇宙ロケットにも大きな影響を及ぼしています。
すなわち『下町ロケット』に代表されるような中小企業もまた、横須賀造船所があったればこその貴重な存在なのです。
明治45年夏、日露戦争(日本海海戦)で勝利した東郷平八郎元帥が小栗家遺族の自宅を訪れ、「日本海海戦でロシア艦隊を撃破することができたのは小栗さんが横須賀造船所を造ってくれたお陰です…」とお礼を述べ、書を揮毫して遺族に寄贈しています。
その書は今、小栗さんが眠る倉渕村の東善寺に所蔵されています。
むろん、富岡製糸場を否定するものではありません。
それはそれで立派な遺産です。
一方、横須賀造船所は大東亜戦争の後に米軍に接収されてしまったものの、未だに横須賀基地として現役のままです。
幕末に小栗さんが輸入したオランダ製のスチームハンマーは、つい最近まで当時のままの姿で稼働していたほどです。